小林拓也 在日米国大使館報道室インターン

皆さんは“Americans with Disabilities Act of 1990”、通称ADAというアメリカの法律をご存知だろうか。1990年に制定されたこの法律は、日本語で「障がいのあるアメリカ人法」と訳されており、障がいのあるアメリカ人が社会に参加する権利を保障している。このADAの制定に向けた活動で主導的役割を果たし、現在は米国国務省で障がい者の権利に関する特別顧問を務めているジュディ・ヒューマン氏に、昨年12月インタビューする機会を得た。

自らも体に障がいがあるヒューマン氏は、幼少期に教育の場で、さらに成長してからは就職に際して障がい者に対する差別を経験した。例えば、彼女は小学校への入学を拒否されている。当時の小学校には車いすをサポートする体制が整っておらず、学校側は施設の構造上、彼女が学校に適応できないと考えた。その後、大学卒業後の進路として選んだ教師への道は、障がいがあるというだけで拒否され続けた。裁判の末、教員になることはできたが、そこに至るまでに大変な苦労を強いられた。こういった差別や社会生活上の障壁をなくし、障がい者にも社会の一員として、権利や可能性があることを明確にするためにADAは必要だった。

アメリカにおける障がい者の権利を保障する法律を求める活動の歴史は長く、ADAが制定される数十年前までさかのぼることができる。その道のりは険しかった。こうした法律の概念に対し、アメリカ社会のさまざまな層から抵抗を受けたのだ。1970年代からはデモも盛んになり、ADA成立直前の1990年3月には、子どもからお年寄りまで約1000人の障がい者が「今こそADAを!」というかけ声とともに、ホワイトハウスから連邦議会議事堂まで行進し、議事堂前の長い階段を誰の助けも借りることなく登るという出来事があった。脳性まひを患った8歳の少女までが参加したこのデモにより、世界はデモに参加した障がい者たちの覚悟を知ることとなった。そして人々は、健常者には当たり前の生活が、障がい者にとってどれほど大変かを認識した。

脳性まひを患った8歳の少女が、連邦議会議事堂前の階段を自力で登っている。1990年3月のデモで (AP Photo/Jeff Markowitz)

脳性まひを患った8歳の少女が、連邦議会議事堂前の階段を自力で登っている。1990年3月のデモで (AP Photo/Jeff Markowitz)

こうした血のにじむような努力の下でADAは生まれた。その結果、障がい者に対する採用時の差別の禁止や、雇用形態や給料システムでの公平性の確保など、職場における多くの変化が生み出された。私たちは、ADAが単に障がい者をサポートする法律だと思いがちだが、この法律が本当に目指しているのは「人権は誰もが公平に持つべきもの」という考え方を人々に理解してもらうことだ。

障がい者の権利保護の歴史を語る上で欠かせないのが、ケネディ家の献身的な支援活動である。キャロライン・ケネディ駐日米国大使の叔父の故エドワード・ケネディ上院議員は、姉のローズ・マリーに知的障がいがあったことや彼自身の息子が病気で右足を失っていたことで、ADA制定の過程においても非常に精力的に国に訴えかけた。さらに大使の叔母のユニス・ケネディ・シュライバー氏が知的障がいを持つ子どもたちのために始めたサマーキャンプが、時代を重ねて現代のスペシャルオリンピックスへと発展した。ケネディ大使も福岡で開催された2014年のスペシャルオリンピックスに参加し、ケネディ家の障がい者支援の伝統を引き継いでいる。

2014年に福岡で開催された第6回スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲームに参加した選手を激励するケネディ大使

2014年に福岡で開催された第6回スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲームに参加した選手を激励するケネディ大使

2010年にジョーンズ・カントリー・ジュニア・カレッジで行われたスペシャル・オリンピックス地区大会のパレード (AP Photo/The Hattiesburg American, Matt Bush)

2010年にジョーンズ・カントリー・ジュニア・カレッジで行われたスペシャル・オリンピックス地区大会のパレード (AP Photo/The Hattiesburg American, Matt Bush)

ヒューマン氏はスペシャルオリンピックスや、2020年に東京で開催されるパラリンピックについて、「スペシャルオリンピックスやパラリンピックは、差別などがつくり出す目に見えない障壁をスポーツの力で打ち砕き、社会全体が1つになる瞬間をつくり上げている」と話してくれた。しかし一方で、誰もが持つべき社会の一員としての権利が、すべての人に与えられているとは今も言い難いということも示唆した。

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インタビューのため在日アメリカ大使館を訪れたジュディ・ヒューマン氏(左)とケネディ大使(右)             

例えば、日本の教育現場では、障がいのある子を避けようとする考え方がなくなっていない。ヒューマン氏によると、アメリカ大使館文化部が主催した、障がいのある児童・生徒が通う教育機関と同氏との意見交換会で、ある先生から「障がいのある子が同じ高校に通っていると、(健常者である)自分の子どもが卒業後、よい仕事に就けない」と訴える保護者のエピソードが紹介されたそうだ。障がい者が授業に参加することで勉強の質が下がりクラス全体の学力に影響が及ぶという間違ったイメージが、彼らが教室にいることへの否定につながっているように思う。健常者と同じ土俵に障がい者を立たせないことで生まれる不平等な状況は、日本だけでなく世界中で見られる。だからこそヒューマン氏は、ADAが施行されてから20年以上たつ今も、世界各地で人権のあるべき姿のために活動している。

ではそのような状況の中、私たちに今どんなことができるのだろう。

今回ヒューマン氏が来日したように、障がいを持つ人々に公平な社会的権利をもたらすための活動は世界でやむことなく続いている。日常生活で障がい者へのさまざまな配慮が必要であると同時に、障がいの有無にかかわらず、互いを一人の人間として理解し、接し合える社会を目指すことが大切なのだ。そのためには、私も含めた未来を担う世界中の一人ひとりが、障がいに限らず、人種、国籍、性的指向などに貼られている「違い」というレッテルを取り除いた状態で、相手を一人の人間として受け入れることが必要である。心のバリアフリーの実現は、決して難しいことではないはずだ。

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私が質問を始めようとした瞬間に、学生と政府高官というお互いの立場に関係なく、対話型のインタビューを提案してくださったヒューマン氏(右)


参考資料

The History of the Americans with Disabilities Act

The ADA: Your Responsibilities as an Employer