今年7月、日本にゆかりのあるアメリカ人がこの世を去った。ハロルド・ジェームズ・アシュビー・ジュニア。彼は時に同性愛者を歓迎しない風潮があったアメリカ国務省において、外交官の同性パートナーとして世界各地を回り、愛情あふれる家庭を築いた。日本での生活は通算で10年に及び、その間に日本人の男の子を養子に迎えた。同性カップルの家庭を築いた先駆者といえるハロルドの生涯を紹介する。

ハロルドのポートレートハロルド・アシュビーは、ニュージャージー州ニューアークで育った。16歳の時、全米各地の高校の生徒会長が集まる会議にニュージャージー州代表として参加した。全50州のうち、黒人の代表を選んだのは2州だけで、そのうちの1人がハロルドだった。開催地ナッシュビルに着くと、48人の白人の生徒会長は地元の家庭にホームステイし、毎晩交流イベントに招待されたが、ハロルドともう1人の黒人の生徒会長は「有色人種」専用のモーテルに置き去りにされた。ハロルドの父親は息子に帰って来るように言ったが、彼は最後まで頑張ることに決めた。そして自分が進む道を差別や偏見が邪魔することは、決して許さないと誓った。

ハロルドはハーバード大学に入学し、国際関係学で学士号を取得した。さらにペンシルベニア大学ウォートン校に進学して経営学修士号、その後ハワイ大学で教育学修士号を取得した。1970年代後半から1982年まで、ハワード大学鎌状赤血球症センターの管理部長を務めた。

ハロルド 日本にて撮影ハロルドがエド・マッケオンと出会ったのは1980年のことだった。交際を始めた2人は、以後34年間を共に過ごした。アメリカの外交官だったエドは、1981年、東京に派遣されることになった。ハロルドにとっては、心の声に従い太平洋を越えて未知の場所に行くか、何の心配もないワシントンに残るかを決める、運命の瞬間だった。彼は心の声に従った。エドと共にまず東京、その後大阪、中国の広州、イスラエルのテルアビブ、そして最後はメキシコシティに居を構えた。アメリカ本国での任務はホノルルとワシントンだけで、いずれも短期間だった。2008年にカリフォルニア州で同性愛者の結婚が合法になると、ハロルドとエドは急いで帰国して結婚し、メキシコに戻ってそこでの任期を終えた。

ハロルドはそれぞれの任地で、その国の言語を日常生活に不自由しないくらいに身につけ、地元の文化に溶け込み、素晴らしい友人を作って、それまでなじみのなかった外国を自分の本当の故郷に変えていった。東京では、六本木フランシスカン・チャペルセンターで日本語を2年間学んだ。彼は行く先々で、英語教師あるいは事務職などの仕事をしながら、家族にとっての次の冒険、次の外交行事や新たな生活に備えた。

ハロルドとエドは1982年から1986年まで東京で、1989年から1991年まで大阪で、そして2003年から2007年まで再び東京で暮らした。2人とも日本と日本の友人を深く愛した。ハロルドは、東京のラジオ放送局でディスクジョッキーとして1年あまり働き、また1985年に開催されたつくば科学万博のアメリカ館で管理部門のマネージャーを務めた。

家族写真 family photo中国広州で暮らしていた1999年、ハロルドは養子をもらおうとエドに提案した。中国は男性2人による養子縁組に眉をひそめたが、奇跡ともいえる幸運が続いてこれが認められ、ハロルドとエドの生活にマックス・アルバート・アシュビー・マッケオンが加わった。その後日本で、ハロルドは2人目の養子をとる提案をした。日本は外国人による養子縁組に難色を示したが、これも認められ、ベンジャミン・マコト・アシュビー・マッケオンが家族に加わった。こうしてアシュビー・マッケオン家のメンバーが揃った。ハロルドは2人の男の子にとって「教育ママ」だった。子供の学校行事に積極的に参加し、宿題を手伝った。子供のスポーツチームの活動にも熱心に参加した。

時として同性愛者を歓迎しない国務省内において、ハロルドは、安定した愛情豊かな同性カップルの家庭を築いた勇気ある先駆者だった。他の同じような同性カップルのために道を切り開き、多くの外国人や一部のアメリカ人にとって初めて目にする同性カップルの家庭を築いた。愛情豊かで相手を支える同性愛パートナーとして尊厳を持って過ごした彼の数十年は、国務省の政策の変更により報われることになった。外交官の配偶者に与えられる米国の外交官パスポートを受け取ったのだ。同性の配偶者としてこのパスポートを受け取ったのは、ハロルドが2人目だった。

2011年に米国で引退してから、ハロルドは生涯を通して愛した2人の子供の世話にさらに多くの時間を費やすことができるようになった。海外生活の間中断していた園芸にも情熱を注ぎ込んだ。ワシントンの自宅の裏庭に木々を植え、そのひとつひとつに友情の証しとして海外の友人の名前を付けた。桜のソメイヨシノは「ヨシロウ」、イロハモミジには「マス」、アメリカハナズオウには「タカヒロ」など。

アシュビーとそのパートナーエドと二人の子供の写真

ハロルドの死は突然だった。亡くなったのは2014年7月29日、肺動脈塞栓症が原因だった。後には夫であり34年間の伴侶であったエド・マッケオン、2人の息子マックス・アルバートとベンジャミン・マコトが残された。ハロルドは愛情豊かな夫、父親、ロールモデル、そして友人として多くの人々の心に残るだろう。

追記:ハロルド・アシュビーの夫エド・マッケオンは、公使ランクの外交官として退職した。後に膵臓がんのため、短い闘病生活の末に2017年9月3日に亡くなった。