留学経験者の紹介

注:( )内はインタビュー時の年齢

加藤綾花(18歳)
今、高校2年生です。交換留学のために丸1年[日本の高校を]休学しました。ノースカロライナ州で、Youth for Understanding(YFU)によるプログラムに参加しました。持っていたビザはJ-1ビザです。10カ月間、つまり1学年の最初から最後までアメリカにいて、ホームステイしました。私のまわりには日本人は1人もいませんでした。YFUプログラムでは、自分で学校を選ぶことはできませんでした。公立高校に通って、アメリカ人の生徒と同じ授業を受けたのですが、どのクラスを取るかは自分で決めました。日本ではダンスのクラスがないので、ダンスのクラスが一番楽しめました。バレエ、ジャズダンス、ヒップホップなどを組み合わせたものでした。

Kinoto Saeki(24歳)
私はミシガン州のグランドバレー州立大学を卒業したばかりで、現在求職中です。高校生の時にメリーランド州の公立高校で1年間勉強し、その後日本に戻って日本の高校を卒業しました。ビザはF-1ビザでした。私の場合、普通の高校留学とは少し違って、アメリカン・フィールド・サービス(AFS)という組織が運営するプログラムでの留学でした。この組織は、第1次世界大戦中に負傷した兵士の救急搬送の任務に当たったドライバーたちによって創設されました。世界平和の基礎は、留学プログラムにあるという考えで運営されています。私もホームステイをしていました。

横山つや(17歳)
私は高校1年生です。出発前にも1年生でしたが、去年1年間の留学が日本の高校の1学年の単位と認められなかったので、もう1度1年生をやらなければなりません。カンザス州のコルビーで、AFSプログラムによる留学でした。1年間のプログラムだったのでビザはF-1でした。AFSがすべて手伝ってくれたので、私はただ大使館に行ってビザ取得の面接を受けただけです。私はホストファミリーを大好きになりました。

予備的な質問

1.留学経験をどのようにとらえていますか。

加藤
素晴らしい経験でした。本当に良い経験だったので、大学も米国に行くつもりです。4年間ずっとではなく、1年間の交換留学で、です。

横山
ただもう素晴らしかったです! 今まで生きてきた中で最高の1年でした。私の日本の高校には生徒が1000人もいます。あちらでは320人しかいないので、全校生徒が私のことを知っていて、町の住人もほとんどが私のことを知っていました。私が今まで暮らしてきた場所と全く違っていたので、すごく良かったと思います。

2.最も良かったことは何ですか。

加藤
もうひとつ家族ができたこと。ホストファミリーの方が、実の家族よりももっと実の家族らしく感じられるようになったほどです。

Saeki
私の今のアメリカのイメージは、さまざまな人たちが同じ学校に通うというものです。留学(メリーランド州)はとてもよい経験でした。ワシントンDCから約1時間、ボルティモアからも約1時間の場所で、アジア人が多く、アフリカ系米国人や白人もいる場所だったので、誰も私を日本人だとは思っていませんでした。1人の人間として見てくれました。

横山
何もかもすべてです! 食べ物もおいしかったし、学校も良かったし、友達にも恵まれました。ホストファミリーも大好きでした。

3.最も苦労したことは何ですか。

加藤
英語です。最初の2カ月間は意思の疎通が難しいと感じました。日常会話は、最初の2カ月もかなりうまくできていたのですが、学校で授業を受け始めるようになると、すごく大変になりました。

Saeki
言葉と文化的なことです。日本では宗教的なことを人に聞いても大丈夫ですが、アメリカではタブー視されています。

4.留学の経験から何を得ましたか。

横山
留学前もアメリカの大学に行きたいと思っていましたが、今は新しくできたファミリーと友達がいる場所にまた行って彼らに再会したいと思っています。はっきりとした目標があるので、すごく頑張っています。高校を卒業したら、アメリカへ留学できればといいなと思っています。

5.なぜ留学したのですか。

加藤
父の仕事の都合でマレーシアに5年間住んでいました。私は現地にある日本人学校に行ったので、毎日英語を話すことはありませんでした。日本に帰国したら、友達みんなから英語をしゃべってと頼まれたのに私は英語が話せませんでした。だからマレーシアでインターナショナル・スクールに行かなかったことをすごく後悔しました。

Saeki
小さいころに英会話学校に通っていて、そのころは英語が大好きだったのですが、学校で英語の授業が始まると文法と読解ばかりで、英語が嫌いになって、成績もひどいものでした。小さいころに英語を学んでいたし、両親がテレビでアメリカ映画を見るのが大好きだったので、私も米国に行きたいと思っていました。AFSのプログラムを見つけた時、とにかくテストを受けてみようと思いました。AFSのプログラムで留学した人とも知り合って、その人からプログラムについていろいろ教えてもらいました。さらに詳しいことはインターネットで調べました。

American Viewの読者からの質問

1.留学前から何を勉強したいか分かっていましたか。何を勉強するか、どこで勉強するかをどうやって決めましたか。(大阪府在住の読者)

加藤
(何を勉強したいかが)はっきり分かっていたわけではありません。インターネットで調べたことはあります。いくつかプログラムの資料を取り寄せて、YFUのプログラムに決めました。

横山
私の祖母もAFSでアメリカに留学しました。もう50年も前のことです。祖母がAFSについて教えてくれ、アメリカに行くための試験があることも知りました。英語の試験と面接を受けなければなりませんでした。全部祖母から聞きました。

2.ホームシックにかかりましたか。その場合どのように対処しましたか。(富山県在住の読者)

加藤さん(左端)とホストファミリー(写真提供 加藤綾花)

加藤
最初の2日間だけですが、実際ホームシックにかかりました。その理由は時差ぼけで眠ることができなかったからです。夜の暗闇の中で、周りには誰も頼る人がいないし、この先1年間の交換留学は一体どうなるのだろうと不安になりました。部屋を一緒に使っていたホストシスターが、私の泣いているのに気づいて、話しかけてくれました。話すことは役に立ちますが、ほかの日本人留学生と話すとホームシックがひどくなってしまうのでお勧めできません。

Saeki
スポンジのように何でも吸収しようとしていたので、ホームシックにはかかりませんでした。何もかもが目新しかったのです。(日本とアメリカを)比較して、日本はこうだ、アメリカはどうだと考えたりはしませんでした。比較するから、ホームシックになってしまうのだと思います。

3.カルチャーショックを感じたことはありましたか。そのうち感じなくなりましたか。(東京都在住の学生)

Saeki 多少はありました。小さなことでは学校の制服がなかったこと。宗教的な学校があることと、タバコなどの自動販売機が街中にないこともカルチャーショックのようなものでした。

横山
今まで住んでいた場所とあまりにも違い過ぎるということでした。日本なら駅まで歩いて3分ぐらいで行けます。食料品店には歩いて1分ぐらいです。ところがアメリカではどこへ行くにも車で、私は運転できませんでしたから、ホストマザーかファーザーにお願いしなければなりません。(日本に帰ってきて)不思議な感じがしたのは、カンザスにいた時は山が全然なかったからです。見渡すかぎり平坦で、どこまでもトウモロコシ畑や麦畑が続いています。だから「わあ、日本にすごくたくさん木がある!」と思いました。カンザスではこれほど多くの木を目にしませんでした。

4.けがや病気など緊急事態に直面したことはありますか。どのように対応しましたか。(京都府在住の読者)

加藤
病気になりました。お医者さんに行きましたが緊急事態ではありませんでした。保険には加入していました。日本ではたいていお医者さんが何種類か薬をくれますが、アメリカではくれませんでした。ただ診察しただけで薬は出されませんでした。家に戻って市販の解熱鎮痛薬を飲んで終わりでした。

5.偏見、固定観念、差別などを経験したことはありますか。あれば、どのように対処しましたか。(東京都在住の学生)

加藤
あります。日本人はだれもが、胸の前で手を叩いて、頭を下げて「こんにちは」と言うものと思われています。実際にそんなことする人はだれもいません! 誤った固定観念は確かにありました。

Saeki
最初に米国に行った時、私はアメリカ映画から情報を得ていました。それで私に固定観念ができました。アメリカ人はだれもがすごく広い家に住んでいて、放課後にはブラブラ遊んで、というような…。でも現実は違います。私のホストファミリーは小さな家に住んでいましたし、放課後はスクールバスに乗らないと家に帰れなかったので、友達と遊んでいる暇はありませんでした。

横山
ほとんどが白人で、黒人やアジア系の人はあまりいませんでした。学校でも私以外のアジア系の生徒は、たった2人だけでした。よく中国人と呼ばれましたが、それも別に意地悪をしようというつもりはなかったのだと思います。中国人と呼ぶのは、アジア人や日本人を見慣れないからで、それでショックを受けたり、悲しくなったりはしませんでした。私のいた町は本当に小さくて差別はまったくありませんでした。

6.米国に留学していて安全だと感じましたか。用心のために何かしたことはありますか。(埼玉県在住の学生)

加藤
ホストファミリーからしないようにと言われていたので、学校へはたくさんお金を持って行かないようにしました。

横山
友達と出かける前に、ホストファーザーに出かける許可を得ること。それだけでした。(門限があり)学校がある時は午後10時30分で、週末は午後11時でした。門限に遅れそうになった時はホストファーザーに前もって電話していたので、門限に遅れたことは一度もありませんでした。プリペイド式の携帯電話を買いました。交換留学生にはすごく役立つと思います。(ホストファミリーから)出かける前や、家の外で何かをする時は事前に知らせるように言われていましたが、それくらいは構いませんでした。自分のしたいことはほとんどさせてもらえました。本当に小さな町だったので、気をつけなければならないのはコヨーテや熊などでした。

7.友達づくりは難しかったですか。より多くの人に出会うための最良の方法は何だと思いますか。(東京都在住の学生)

加藤
私はとにかく人と一緒にいることが好きなので難しくありませんでした。クラブに参加すること(が学校での友達づくりの最良の方法だと思います)。

Saeki
私には(友達づくりは)大変でした。メリーランドの高校には8月に行きました。最初の2~3カ月間、友達は全然いませんでした。ランチも1人で食べていました。ランチをどこで食べればいいのかも分かりませんでした。授業中に親切にしてくれた人がいたとしても、日本と違い、アメリカでは授業ごとに生徒は教室を移動しますから、昼休みになると友達がどこへ行くのか分かりませんでした。スポーツなどのグループに入れば、ルールは同じですから、そのルールさえ知っていれば、たとえ話す言葉が違っていてもプレーに参加することができます。そうして友達をつくることができました。また、そうやってできた友達を通じて、すぐに別の友達もできました。

横山
私はあまり社交的な性格ではありませんから、クリスマスのころまでは本当の友達はできませんでした。かなり長くかかりましたが、友達がいなくてもすごく満足していました。子犬と遊んだり、本を読んだりしているだけで十分に幸せでした。その後、女子のバスケット部のマネージャーになったり、インターナショナル・クラブにも入りました。これがとても役立ちました。私以外にも女子マネージャーが2人いて、その子たちとすごく仲良くなって、バスケットボール・チームの中で友達をつくることができたからです。

8.クラブや学生組織に所属していましたか。どのような活動やイベントに参加しましたか。何かお勧めの活動はありますか。(神奈川県在住の読者)

加藤
ダンス・チーム、ドリル・チーム、チアリーディングに所属していました。ドリル・チームは、バンドが行進をする時に一緒にダンスをするチームです。ホームカミング(学園祭)もありました。ハロウィーンの日に、学校でハロウィーン・ホームカミング・フットボールの試合がありました。みんなで試合を観戦しましたが、特別な行事だったと思います。

Saeki
私は日本語の先生のお手伝いをしました。先生に頼まれて日本語の授業を受けたのですが、試験は受けませんでしたし、Aの評価をもらいました。ただ座っていただけですが、日本語を発音してみせたり、筆順通りに漢字を書いたりしました。

友人のブリタニーとプロムにでかけた横山さん(写真提供 横山つや)

横山
私はプロム(ダンスパーティー)などの卒業記念の行事に参加しました。ホストファミリーは私のためにパーティーを開いてくれたし、プロムも本当に楽しみました。春休みにアリゾナに行き、ドレスや靴などをすべてそこでそろえました。もう最高でした! 学校の近くのホテルを会場にした本当にフォーマルな行事で、正式なディナーを食べてダンスをしました。

9.学校以外に、英会話の上達を支援するグループや、趣味のグループがありましたか。こうしたグループをどうやって見つけて、どんな活動をしましたか。(神奈川県在住の読者)

加藤
ESLのクラスがあったので取りましたが、とても退屈なのでほかの人にはお勧めできません。最初の2~3週間は役に立つかもしれませんが、それ以降は退屈でした。

横山
私はラジオの英語番組を5年間聴いていました。すごく役に立ったと思います。(初めてアメリカに行った時)言いたいことは伝えられたのですが、人の言っていることが聞き取れませんでした。私に向かって言っている時は何を話しているのか分かるのですが、アメリカ人同士が話している時は、早すぎてついていけませんでした。(そのうちに英語が上達したので)日本に帰国した時には日本語がまったく話せなくなっていました。母は英語が全く話せないのに、その母にも英語で話していました。

10.学資援助を受けましたか。内容はどのようなものでしたか。どうやって見つけましたか。(茨城県在住の学生)

加藤
YFUから10万円が支給されました。それで日本に戻った時にレポートを書かなければなりませんでした。

横山
(私のプログラムの場合)普通は2万ドル程度を自己負担しなければならないのですが、私は米国大使館から奨学金(田中利之/米国大使館奨学金)を受けたので自己負担はありませんでした。予防注射やスーツケースを買うお金は自分で払いましたが、奨学金のおかげですごく助かりました。(帰国したら報告をしなければならないので)明日その面接に行かなければなりません。

11.米国留学に際し、日本から持参した方がいいものはありますか。(富山県在住の読者)

加藤
「五十音表」です。友達がみんな日本語を教えてと言うので発音から始めたのですが、ただ口で言うだけでは難しいので、私は書いていました。持って行かなくても、自分で作ってもよいと思います。私のお勧めは五十音表、浴衣、日本の伝統的なお菓子です。
Saeki 「クックドゥ」のパック入りソースです。普通のソースですが、肉や野菜を調理して、それを加えるだけで(いつも日本で食べているものと)同じ味になります。

横山
とにかく衣類をたくさん持っていくこと。ちょっと変わっていると思うのですが、アメリカではあまり洗濯をしません。日本では洗濯は毎日しますが、アメリカでは週に1回くらいです。田舎だとモールに行って衣服を買うこともあまりできません。着いたら日本の両親に冬服を送ってもらうことはできます。私は写真アルバムを作りました。ホストファミリーや友達にすごく喜ばれましたから、良いアイデアだと思います。

その他のコメント

加藤
出発前に英語の勉強をすること。少なくとも、ある程度の単語を覚えて、前向きな態度を取ることです。何か言いたいのに、うまく伝えることができない。そう見えるのは大丈夫ですが、すごく引っ込み思案になって、自分には伝えることができないと思い込んでしまったら、それは良くありません。私は英語を流ちょうに話せるわけではありませんでしたが、簡単な言葉や文章なら使えました。もうひとつ、日本では数学が本当に苦手でも、数学の授業を受けることです。私は日本では数学がすごく苦手でしたが、米国では過去最高の得点を取ったということで、州から表彰されました。成績表には156%の得点がついていました。ほとんどノーミスだったので、賞状をもらいました。

Saeki
何でも吸収するスポンジになること。比較をやめて、すべてを取り入れることです。赤ちゃんのようになることが必要です。頭に日本語があると、頭の中で翻訳してしまいますが、それをやっていたのでは追いつきません。

横山
ニューヨークに行くとか、ロサンゼルスに行きたいなどという期待を抱かないことです。私はどこへも行きませんでしたが、滞在している場所にいるだけで本当に楽しむことができます。それから、友達ができないとか、英語がうまく話せないといって、落ち込みすぎないことです。そのうちうまくいくようになります。英語で日記や日誌をつけるのも良い考えです。滞在が終わるころ、8月から続けてきた日誌を読むのはすごく楽しいと思います。成り行きに任せて、楽しみましょう! 必死で努力しなければ、楽しめないということはありません。