東京近郊にある陽気なパブ。金曜日の夜、ここはあらゆる層の人々で溢れかえる。若いカップル、ひとつのテーブルを囲んだ何人もの年配の女性たち、盛り上がっている若い外国人グループ。幼い息子を連れた母親もいる。店の隅にはステージがあり、今まさに始まろうとしているショーを一目見ようと、店の外にも人々が列を成している。このように、年齢も性別も、国籍さえ千差万別の人たちを引きつけるなんて、一体どんなショーが始まるのだろうか。舞台に現れたのは「外山喜雄とデキシーセインツ」。懐かしいニューオーリンズのジャズを奏でるグループだ。彼らの演奏が始まると、その場にいる誰の顔にも笑顔がこぼれる。

浦安のパブで演奏する外山喜雄さん・恵子さんご夫妻

浦安のパブで演奏する外山喜雄さん・恵子さんご夫妻

「ジャズはアメリカが世界にくれた素敵なプレゼントなんですよ」。アメリカン・ビューのインタビューで外山さんはこう答えた。ライブでトランペットを吹き、バンドに合わせて歌うとき、彼が考えているのは「ニューオーリンズのスピリットと『サッチモ』(ルイ・アームストロングの愛称)のハートを伝えて、お客さんに喜んでもらいたい」ということだ。6人のメンバーで構成されるデキシーセインツは、「聖者の行進」のような往年の名曲を演奏しながら、お客さんにニューオーリンズ・ジャズについて説明し、手拍子や歌で演奏に参加するよう呼びかける。

ショーの途中で、外山さんと奥さんの恵子さん(バンドでピアノとバンジョーを担当する快活な女性)がお客さんに派手な傘を手渡した。するとバンド・メンバーがステージから降りて、それぞれの楽器を演奏しながら店内を練り歩き、お客さんがその後ろから、踊ったり、傘をクルクル回したりしながら一列になってついていった。外山さんいわく、これは「セカンド・ライン」というニューオーリンズ独特の風習だそうだ。かの地では、お葬式のとき墓地までパレードする。行きは静かな音楽が奏でられるが、死者の埋葬を終えた後の帰り道では、バンドがにぎやかな曲を演奏し、その後から一般の群衆が音楽に合わせて踊ったり、傘を掲げながらパレードするのだ。

外山さんは「日本のサッチモ」と呼ばれている。その理由は、彼が「この素晴らしき世界」(What a Wonderful World)を歌い始めるとすぐにわかった。その重厚な声の響きが、彼の尊敬するジャズの巨星ルイ・アームストロングとそっくりなのだ。

若いころジャズに魅せられた外山夫妻が、ジャズ生誕の地ニューオーリンズに向かったのは1968年のことだった。それから5年間、ふたりはこの町で暮らしてジャズを学んだ。「アメリカに行って、すごく視野が広がりました。世界を見る尺度が違ってくるんですね。特にニューオーリンズはジャズのメッカです。だからヨーロッパからも勉強に来ているし、いろいろな人が来ているんですよ。ジャズのコアの人たちと関係ができたりする。日本だけにいたら、日本のことしか見えない。ニューオーリンズからヨーロッパにも行きましたが、いろいろな場所を体験してみると、本当に違うものが見えてくる気がしました」

ニューオーリンズでは地元のミュージシャンと一緒に勉強したり、ジャズ界の著名人と友達になったりした。こうしたネットワークと外山夫妻のジャズに対する深い愛情により、ふたりはニューオーリンズと日本の間で、音楽を超えて広がり、人々の人生を変える人間同士のつながりを築くことができた。

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日本に帰国後、1990年代にニューオーリンズを再訪した外山夫妻は、町がとても危険な場所に変貌していたことにショックを受けた。あちこちにドラッグが溢れ、実際に銃を持っている若者がいると知ったふたりは、何とかしなければと思った。そのとき外山さんの頭に浮かんだのがルイ・アームストロングのことだった。アームストロングはスラムで生まれ、若いころピストルを空中に発砲したため少年院に送られた。その少年院で音楽を学び、金管楽器のコルネットに熱中したサッチモは、ついにはジャズの世界に革命を起し、史上最も偉大なミュージシャンのひとりに数えられるようになった。

サッチモの人生からヒントを得た外山夫妻は、日本ルイ・アームストロング協会を設立した。この協会は「銃に代えて楽器を」というスローガンの下、ドラッグや暴力に手を染める代わりに音楽を奏でられるよう、ニューオーリンズの子どもたちに楽器を贈ること、そしてサッチモの音楽を楽しむとともにサッチモの精神を多くの人々に知ってもらうことを目的としている。「まず僕たちが一番やりたかったのは、アメリカが世界にくれた偉大なプレゼント『ジャズ』を学んだときにお世話になったアメリカのミュージシャンや他のアメリカの人たちに恩返しをすることでした。皆さん、本当に心が広い、優しい人が多かったのです」

外山さんたちの活動がメディアに取り上げられるようになると、何年もクローゼットにしまわれたままだった古いトランペットやサクソホンが日本全国から協会に送られてくるようになった。「本当に、びっくりするようにたくさん送られてきました。皆さん、大切な楽器でしょうに、ニューオーリンズに届けてもらえるなら手放してもいいと思ってくれたようでした。送られてきた楽器に添えられた手紙を読んで、私たちも感動しました」と恵子さんは言う。日本ルイ・アームストロング協会が設立から18年間でニューオーリンズの子どもたちに贈った楽器の数は、実に800台近くに上る。

2005年にハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲った直後、外山夫妻は日本の人たちからの支援を募るメッセージをインターネット上に掲載した。するとジャズのファンやミュージシャンから、ハリケーンで楽器を失ったミュージシャンや子どもたちに楽器を贈りたいというメッセージが殺到した。「驚くほど多くの人たちが支援の手を差し伸べてくれました。日本ルイ・アームストロング協会に、合計でなんと1000万円の寄付が届いたんです」。外山夫妻はニューオーリンズの団体やミュージシャンとの人脈を利用して多額の寄付金と楽器を送り、ハリケーンの被害を受けたジャズ発祥の地の復興を支援することができた。

そして2011年3月11日。今度は日本が災害に見舞われた。東日本大震災で被害を受けたのは主に東北地方だったが、外山夫妻が住む東京近郊の町は埋立地の上に作られているため、ふたりの家も大きな被害を受けた。しかし彼らに自分たちの状況を心配している暇はほとんどなかった。震災の直後から、日本を助けたいがどうすればいいかというニューオーリンズの人々からの問い合わせの電話やメールが殺到したからだ。

 過去に日本ルイ・アームストロング協会から楽器を受け取ったことがあるニューオーリンズの学校のうち1校は、日本を支援する募金集めのチャリティー・コンサートを開いた。ニューオーリンズのジャズ・ライブハウスで、子ども向けの音楽プログラムの振興や学校への楽器の寄贈も行っているティピティナス財団も、支援を申し出るメールを送ってきた。「カトリーナで同じような壊滅的被害を受ける経験をした私たちには、被災地に楽器を送る必要があることが理解できました」とティピティナス財団のベサニー・ポールソン事務局長は言う。「カトリーナの後、前に進み、ニューオーリンズの再建を続ける意欲を人々に持たせる光の役割を果たしたのが音楽です。日本の震災の後、ティピティナス財団が日本支援を決めたのは自然なことでした。私たちは、カトリーナの後ニューオーリンズ市民が持ったものと同じ希望と励みを、津波の被災者にも持ってもらいたかったのです」

 

外山さんは言います。「本当にありがたいことだと思いました。こういうことになるとは思ってもいませんでした。そのとき被災地はまだ、水もない、食料もない、電気もない、混乱した状態でしたから、楽器どころではないと思いました」。日本ルイ・アームストロング協会がティピティナス財団に力を貸し、津波で楽器を流されているバンドがないか探した結果、宮城県気仙沼市の「スウィング・ドルフィンズ」と同県多賀城市の多賀城東小学校の「ブライト・キッズ」という2つの子どものバンドが被害に遭っていることがわかった。そしてこの2つのバンドに、ティピティナス財団からの寄付金で購入した新しい楽器を送る手配をした。

楽器をもらった若きミュージシャンの中には、家を失って避難所で生活していた子もいたが、真新しい楽器を使って練習を始めた。そして2011年4月24日、震災後まだ2カ月もたたないうちに、スウィング・ドルフィンズは気仙沼市の避難所の前でコンサートを開いた。その模様が日本全国に放送され、当時の数少ない明るいニュースのひとつになった。「悲しみが満ちている状態の中、それがすごく温かい話題となりました。良いニュースとなったので、とてもうれしかった」と外山さんは思い起こす。

外山夫妻は長年、ニューオーリンズと日本の若いミュージシャンを対象とするジャズ交流プログラムを企画することを夢見ていた。その夢が一部実現した。2012年10月、日本ルイ・アームストロング協会はティピティナス財団、国際交流基金と協力して、ティピティナス・インターン・バンドとオー・ペリー・ウォーカーズ・チョーズン・ワンズ・ブラスバンド(OPWバンド)の子どもたちをニューオーリンズから日本に招いた。「私たちが支援してきた高校生の子どもたちが、まさか日本に来る機会があるなんて思っていませんでした。私たちが(ニューオーリンズに)行ったときに、将来日本に行けたらいいなという夢みたいな話をしていたんです。その子たちが日本に来られることになって、本当に夢が実現しました。子どもたちにとって本当に素晴らしい新しい経験をしたと思います」と外山さんは語った。来日した子どもたちは「横濱ジャズプロムナード」「東京ニューオーリンズ・ジャズ・フェスティバル」(サッチモ祭)のほか、被災地での数々のイベントで演奏した。

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ティピティナス財団のプログラム・マネージャー、エミリー・メナード氏はこのように言っている。「日本訪問のハイライトは、私たちが楽器を贈った日本の子どもたちと会い、彼らが大好きな音楽を演奏するのを聴くことでした。実際に会うのは初めてでしたが、どの顔もなじみがあるように見えました。どういうわけか、私たちはつながっており、ずっと昔から彼らのことを知っていたように感じました」

かつてブライト・キッズのメンバーだった多賀城市の中学生、千葉隆壱君は、ニューオーリンズの若いミュージシャンと、彼らの先生でもある有名なジャズサックス奏者のドナルド・ハリソン氏の演奏を見る機会を得て大喜びだった。お母さんの貴久江さんは「隆壱にとって夢のような時間でした。外山さんがいなければ、ドナルド・ハリソンが日本に来ることもなければ、東北学院(隆壱君が通う中学校)に来て息子の真横で演奏してくれることもありませんでした」と語った。

ニューオーリンズから来た若いミュージシャンたちも、日本訪問から深い影響を受けた。東北の被災地を訪れることは、それ自体が感情を揺さぶられる体験だが、特に幼いころハリケーン・カトリーナを経験した彼らが被災地で演奏するのは感動的だった。「たとえ言葉で思いを伝えられなくても、私たちが交流しているのは、災害からの復興がどのようなものか、そして音楽にどれほどの力があるかを理解している人たちだということが、私たちにはわかりました」とティピティナスのポールソン事務局長は言う。「この経験から子どもたちが得た人生の教訓と交流には、計り知れない価値があります」

気仙沼市では、津波で陸に押し上げられた漁船が、津波の破壊力を物語る記念碑として道路沿いに残されている場所も訪れた。「ニューオーリンズのジャズのお葬式のときに演奏される賛美歌をみんなで演奏しました。それも彼らにとって思い出深いことだったと思います」と外山さんは語った。OPWバンドの一員として日本に来た高校生デビン・リー君は、日本で大地震が起きたと聞いてどう思ったかという質問に、このように答えた。「すぐにハリケーン・カトリーナのことを思い出しました。船やがれきがあちこちにあって…。カトリーナのときのことをいろいろ思い出してしまうので、被災地のニュースを見るのがつらいときもありました」

共に大災害を経験した日本とニューオーリンズは、特別な絆を育んできた。日本を訪れたニューオーリンズの子どもたちは、おそらく皆が、ティピティナス・インターン・バンドのハンター・バーガミー君の説得力のある言葉に同意するだろう。「日本での経験を通じ、僕は文化に対する尊敬の念を学びました。宮城でいろいろ経験して、世界がひとつになって協力し、助け合わなければならないことがわかりました。そして同じような自然災害にしばしば見舞われるニューオーリンズと日本は、再建と再生を理解しているという点で固く結ばれています」

ポールソン事務局長は、日米の子どもたちが夕食を共にした仙台でのイベントを思い起こす。「それまでは片言の英語や身振り手振りでコミュニケーションを取っていたんですが、しばらくすると誰かがマイケル・ジャクソンの歌を歌い始めたんです。ここでも、言葉で意思の疎通ができないときに、子どもたちを交流させたのは音楽でした」

「今回の文化交流はとりわけ特別なものでした。なぜなら、それまで一度も会ったことがなく、話す言葉さえ違うのに、共通の体験があったので、私たちは言葉の壁を乗り越えて一体になることができたからです」とメナード氏は説明した。

ニューオーリンズからの一行にとって、今回の旅で最も充実感を味わったのは、日本の観客が自分たちの音楽と一体になっていると感じられたときだった。日本の観客は概してアメリカ人よりも遠慮がちだが、ティピティナス・インターン・バンドのダリル・ステイブス君は「僕たちの演奏で日本の観客はとても盛り上がりました。どのショーでも大勢の人が参加してくれたので、演奏をさらに楽しむことができました」と語った。OPWバンドのデビン・リー君は「お客さんたちの表情を見ると、みんなとても楽しんでくれていることがわかりました。ニューオーリンズの人たちと同じように、僕たちと一緒に踊ったり、セカンド・ラインに参加してくれました」と言う。

今回のジャズ交流プログラムへの参加を通じ、日米どちらの子どもたちも、音楽を通じて、言葉と文化を超越する、人と人との間の深い結び付きが生まれることを学んだ。悲劇を経験した人を元気づける一方で、同じ感情を分かち合うために人々を結び付ける力が音楽にはある。千葉隆壱君のお母さんは、隆壱君がこのプログラムでこうした交流を体験できたことを喜んでいた。「音楽は英語関係ないんですよ。音、リズム、メロディーは世界共通なので、(英語を)話すことができなくてもわかりますよね。悲しい曲でもうれしい曲でも、聴くだけで悲しい曲なのかうれしい曲なのかがわかる。それを外山さんに教わりました。音楽は『世界共通の言葉』なんです」

今回の「ジャパン・ツアー」に関わった誰もが、忘れられない経験だったと言う。そして外山喜雄さん、恵子さんにとっては、長年の夢がかなったことになる。ふたりはこのプログラムを通じて、若いころに見つけた「ジャズという贈り物」を使い、大きな災害を経験した若者の心を慰めた。けれどもジャズ交流プログラムは始まったばかりだ。「この夏には、ニューオーリンズからの楽器で復活したスウィング・ドルフィンズをニューオーリンズへ連れて行って、あちらで『ニューオーリンズの皆さん、ありがとうございました』というお礼の気持ちを込めた演奏をさせてあげたいと思います」と外山さんは言う。ティピティナス財団によると、スウィング・ドルフィンズは2013年8月にニューオーリンズを訪問する予定であり、現地の中学生バンドとのセッションや、ティピティナスのライブハウス、サッチモ・サマー・フェスティバルでの演奏のほか、日本へのツアーに参加した子どもたちとも交流する。

一方で外山さんは、ライブ演奏と、ルイ・アームストロングについての本の執筆を通じ、ニューオーリンズの素晴らしい世界を日本に紹介する活動を続けていく。ティピティナス財団もニューオーリンズで若い世代に本物のジャズを教える取り組みを続ける。世界中の若者たちを結び付け、互いに交流し、ジャズや人生について学びあえるようにする重要な役割を担うのが、外山喜雄さん、恵子さんのような人々の草の根の活動であることは、今後も変わらないだろう。

若き日の外山喜雄さんと恵子さん

若き日の外山喜雄さんと恵子さん