「自分のやりたいことを見つけてきなさい」。私が渡米するとき、両親からもらった言葉だ。

2009年春、私はニューヨークにあるコロンビア大学バーナード・カレッジを卒業した。留学生活を通し自分は何をして何を得たのか。4年間を振り返れば、私は始めから最後まで「自分探し」をしていた。

自分探しの旅は、思えば高校生のときから始まっていた。

コミュニティーカレッジに入学するまで

大出歩美(写真左)

小学校から高校まで、地元の公立学校に通った。それが私にとって「当然」の進路選択だった。高校2年の終わりになって大学進学を考えたときも、当時の私にとっては国内大学進学が当然の選択だった。

アメリカ大学進学を考え始めたのは高校3年生の初めだった。通っていた都立高校では、私が高校2年生のときに国際交流という行事が始まっていた。そのとき、少なからず自分の現状に閉塞(へいそく)感を持っていた私は、海外に興味を持ち始めていた。英語が得意なわけでもなく、その時点では海外に行ったこともなかった。ただ、将来を考えたとき、漠然と「このままでは嫌」と感じていた。

そんなとき、保護者会から帰って来た母が「国際交流」と書かれたプリントを私に見せた。アメリカから高校生を十数人受け入れることになり、その受け入れ先を募集するというお知らせだった。ホストファミリーをした生徒は、翌年の春休みにアメリカでホームステイできるという。「ホストファミリー、してみない?」そう言い出したのは母だった。日本以外の国に行きたいと思っていた私の返事は、もちろん「YES」だった。

私の家にやってきたのはワシントン州シアトル郊外で生まれ育った、金髪白人のアメリカ人の女の子ベッキーだった。たった10日間のホストファミリーだったが、私の家では大イベント。英語が話せず慌てることが度々。私にとっても、家族にとっても、初めての異文化交流だった。

ベッキーを受け入れた翌年、今度は私がベッキーの家にホームステイすることになった。山の中に家があると聞いていたが、実際行ってみて驚いた。本当に山の中に家があったのだ。10日間、ベッキーの車で現地の高校に通った。学校は1階建てで、すぐ後ろに山が見え、生徒はほとんどが白人。私が生まれ育った東京とは全く別の世界が目の前に広がっていた。英語は話せなかったが、日本で閉塞感を持っていた私は、そのとき「やっぱり世界は広いんだ。もっと違う世界を見てみたい」と強く思った。そして日本に戻ったとき、「アメリカの大学に通う」という、両親が全く予想していなかった進路を選択した。

英語力があまりない私がアメリカの大学に通えるのか? 両親が最初に持った疑問だった。インターネットで調べたり、留学塾の説明会に行って知ったのは、コミュニティーカレッジ(以下コミカレ)という選択肢。2年制大学で、英語を母国語としない学生への英語教育 (ESL)が充実しており、英語力が低い学生も通うことができる。さらにコミカレで好成績を収めれば、難関4年制大学へ編入できることもわかった。特にカリフォルニアのコミカレから、カリフォルニア大学バークリー校、同ロサンゼルス校(UCLA)への編入が盛んだったことから、カリフォルニアのコミカレを選択した。同州の大都市といえばロサンゼルスとサンフランシスコだ。この2都市にはアメリカでのホームステイ後に旅行したことがあり、サンフランシスコの雰囲気が好きだったため、コミカレはサンフランシスコ周辺で決めることにした。学校選びの主な情報はインターネットや書籍から手に入れ、最終的に決めるときは母と実際にいくつかの学校を下見した。

自分自身、アメリカの学校を下見することは考えていなかったが、父が「自分が通う大学は実際に見て決めた方が良い」と勧めてくれた。進学先候補のコミカレを4~5校に絞り、母とサンフランシスコへ発ったのは高校3年の冬だった。現地では観光ガイドに車で各校を案内してもらった。

学校の下見を勧めてくれた父には感謝している。下見して本当に良かったと思っているからだ。インターネットや本ではわからない学校や学生の雰囲気がよくわかったし、初めての海外生活を1人で送る上で、現地に行く前に現地の雰囲気、生活のしやすさ、治安等の情報を生で入手できた。最終的に、学校の雰囲気が良く、生活しやすそうな町にあるコミカレを選択した。

初めての海外生活を直前に控え、私は、海外大学への進学は自分の人生のターニングポイントと自覚しながらも、期待や不安を感じていた。何が起こるのか全くわからず、4年後の自分はどこにいて何をしているのか、想像できなかった。それでも不思議と、自分の選択が絶対正しいと確信していた。それは、現状から抜け出すためではなく、将来性がある進路選択をしたからだと思う。アメリカの難関大学卒業後のことはあまり考えていなかったが、将来には、今自分に見えていない幅広い選択肢がある、と漠然と感じていたのかもしれない。その将来の自分のために4年間は頑張ると決めていたし、すべてのエネルギーを注いで良い大学へ編入する、と渡米前から固く決意していた。渡米直前、両親から言われた「自分のやりたいことを見つけてきなさい」という言葉。これが私の4年間の留学生活の目的となった。2005年5月21日、私は家族と友人に見送られ、その目的にたどり着くため、自分探しの旅に出た。

コミュニティーカレッジでの生活

カリフォルニア州のコミュニティーカレッジのダンスクラス(写真提供 大出歩美)

コミカレでの2年間は「編入」の2文字しか頭になかった。入学前の3カ月間はサンフランシスコ近郊の語学学校に通っていたが、そのときもコミカレで良い成績が取れるかどうかを心配していた。コミカレに入学してからも、オールAを取らないといけないと自分自身に言い聞かせて、毎日勉強していた。友人に「それ以上勉強しない方が良い。勉強のし過ぎだよ」と言われたこともあるぐらい、どこに行っても勉強して、ほとんど遊んでいなかった。

成績のことを意識していたのは、2年後の編入を考えていたからだ。バークリーやUCLAへ編入するためには、オールAに近い成績を取らないと合格できない、とわかっていた。その上、私は両親と4年間で大学を卒業すると約束していたため、編入に必要な最低単位を2年間で取る必要があった。

そんな中、最初の学期は始まる前から悩んでいた。理由は、バークリーまたはUCLAへの編入には、編入可能単位を2年間で60単位取る必要があったのだが、最初の学期は英語力がそこまでないため1単位しか取得できなかったからだ。学校は1年2学期制で、学生は通常、1学期平均15単位取る。2年過ごすと60単位取得できる計算だ。最初の学期で1単位しか編入可能単位を取得できなかったため、2年後の編入のためには次の学期から多数の単位を取らなければならなかった。その上、最初の学期はESLのクラスも難しくて苦労した。早速、編入に不安を覚えた。

編入のためには、最低単位数のほかに一般教養クラスを幅広く履修する必要がある。カリフォルニアのコミカレ各校では、編入志望者用に、受講すべき分野やクラスについての案内書を用意している。私は編入後に経済学を専攻すると決めていたため、コミカレでは一般教養を全般的に履修しながら、経済学の基礎クラスを受講していた。最初の学期で1単位しか編入可能単位を取れなかった私は、次の学期から17単位、18単位、19単位を取得。夏学期は平均6単位のところ8単位履修して、無事2年間で必要な編入可能単位をすべて取得した。

留学するとき両親と約束していたのは、大学を4年間で卒業することのほか、お金と安全面を考えて車を買わない、ということだった。そのため、カレッジの下見のときには車なしで生活できる地域かどうかをチェックした。私が住んだベイエリアはバスが頻繁に走っていて、車がなくても移動可能だ。学校まではバスを2本乗り継いで通った。それでもバスを20~30分待つことはよくあり、近くのスーパーに買い物に行くと2時間ぐらい簡単にたってしまう。交通面以上に苦労したのは、水が合わなかったことである。新しい家に引っ越したとき、3日たったところで、肌がいきなり赤く炎症を起こした。何が起こったのかわからず、化粧水が肌に合わないのかと思い現地の日本の病院に行ったが、原因がわからなかった。インターネットで調べたら、水が原因の可能性があることがわかった。ミネラルウォーターを使用し始めたら、翌日には炎症が引いた。その日からベイエリアを引っ越すまでの1年数カ月、洗顔するときはミネラルウォーターを使用した。そのため、毎週バス通学の途中でスーパーに寄り、重いペットボトルを購入した。

生活面では学校での勉強と同じくらい苦労した。家族と18年間、東京で引っ越しもせず暮らしていた私は、生活する大変さをわかっていなかったのだ。その中でも特に大変だったのが、家探し。語学学校時代は寮に住んでいて、コミカレでは学校が紹介してくれた業者からあっせんされたホームステイ先に住んでいた。だが、住み始めて半年後、急にホストファミリーが引っ越すと言い始めた。引っ越しの日まで残り1カ月。初めての家探しが始まった。1人で住むにはお金の面で無理があったので、ルームシェアを検討。語学学校時代にイタリア人とのルームシェアで苦労することがあったので、なるべく日本人またはアジア人が良いと思っていた。友達同士でシェアをして大げんかした話を聞いたこともあったため、知り合いの知り合いで誰かいないか探したが、なかなかタイミングよく見つからなかった。最終的には、現地の日本人コミュニティーサイトの掲示板で、年上の日本人女性のルームメイトを見つけた。しかし、彼女は車を持っており私はバス通学のため、どの地域に住むかで意見が合わず、結局ホストファミリーが引っ越す日になっても家が見つからなかった。友達の家に住んでさらに1カ月間部屋を探し、無事アパートを見つけることができた。最初の引っ越しで苦労したせいか、その後荷物はあまり持たないように心がけた。その後も編入するまで何回か引っ越しを経験し、4年間の留学生活で14回引っ越した。学んだのは、荷物は少なく(なるべく家具は持たない)、友達は大切にする、ということ。日本ではあって当然のもの(家、水、家族等)でも簡単に失うことがある、と痛感した。

西海岸から東海岸へ

履修クラスや課外活動等、編入に必要な条件を調べていた私は、コミカレ1年目の終わりになって、志望校をもっと幅広く考えたい、と強く思うようになった。もともとニューヨークへのあこがれがあったので、アメリカの名門校と言われるアイビーリーグの大学をはじめ、東海岸の難関校への編入も検討し始めた。そのときに、バークリーやUCLAへの編入との手続きの違いに気づいた。まず、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)、大学進学適性試験(SAT)といった試験を受ける必要があること。バークリーやUCLAへの編入では、コミカレのときに履修した英語クラスの成績次第でTOEFLは免除になり、ほとんどの学生は受験する必要がない。

2つ目はエッセー(小論文)の多さ。カリフォルニア大学系の大学へ編入するときにもエッセーは書くが、各校に異なるエッセーを提出する必要はない。つまり、バークリーとUCLAに同じエッセーを提出できる。一方その他の難関校ではいくつかトピックが与えられ、それぞれについて考える必要があった。

3つ目は推薦状が必要ということ。バークリーやUCLAへの編入では推薦状は必要なかったが、その他の大学では最低2通の推薦状を求められた。最後に締め切り。バークリーとUCLAへの応募締め切りは11月30日、その他の大学は2月から4月にかけてが締め切りだった。そのため、本格的な編入準備は8月末から翌年4月まで続いた。

コロンビア大学バーナード・カレッジ(写真提供 大出歩美)

TOEFL、SATに関しては簡単にスコアが伸びないとわかっていたため、夏前の5月から準備を始めた。エッセーに関しては、コミカレのときに素晴らしい先生(リンダ)に出会い、助けられた。最終的に9つの大学へ出願したのだが、ほぼすべてのエッセーをリンダが見てくれたのだ。カレッジにあるライティング・センターに週4日通った上、リンダのオフィスでエッセーを見てもらったこともあった。毎日のようにエッセーを書いて修正していた。最後の出願は4月1日。書類をポストに入れたとき、涙が出てきた。2年間必死で編入に向かって走り続けてきて、つらいこともたくさんあったけど、編入のためと思って頑張ってきた。その闘いが終わった、と思った。このとき、初めて編入という2文字から解放された。

最終的に迷ったのは、バークリーに編入するか、バーナード・カレッジに編入するかだった。留学を決意したときからバークリーを目指しており、そのためにカリフォルニアのコミカレに進学した。経済学でも有名な大学だ。それでも、東海岸のニューヨークにある私立大学に行ってみたいという思いが強かったので、最終的にはバーナード・カレッジへの編入を決めた。コミカレにいた2年間旅行することもなかったため、引っ越しは旅行も兼ねて、西海岸のサンフランシスコから東海岸のニューヨークまでアムトラック(大陸横断鉄道)で移動した。6日間かけて、1人で80時間以上列車に乗車し、スーツケースひとつで引っ越した。途中デンバーとシカゴに寄って、ニューヨークに着いたときは感動した。西海岸とは全く違う景色が広がっていた。高層ビルが立ち並び、車と人が町中に溢れている。新しい生活の始まりを実感した瞬間だった。

コロンビア大学バーナード・カレッジ

コロンビア大学はニューヨーク市マンハッタンにある私立の総合大学である。学部から大学院課程まである、アメリカで6番目に古い大学で、アイビーリーグのひとつとしても知られている。私はその大学のバーナード・カレッジに編入した。リベラルアーツ・カレッジのひとつであり、女子大である。

コロンビア大学には学士課程の学校がいくつかあり、中でもコロンビア・カレッジが一番古くて有名だ。オバマ大統領や宇多田ヒカルさんも在籍していた。コロンビア・カレッジがまだ男子校だったころ、10代目学長のバーナード氏が「女性にも教育を提供したい」と考え、ブロードウェイを挟んだ隣にバーナード・カレッジのキャンパスを開いた。以来、バーナード・カレッジはコロンビア大学の一部となり、学生たちはコロンビア・カレッジのクラスを自由に受講したり、一緒にクラブ活動をしたり、同じ寮に住んだりして、メインキャンパスと密接な関係を築いている。

コロンビア大学がコミカレと大きく違うと思った点は、学生と大学の設備だった。コロンビア大学には探究心の強い学生が多く、自分の興味ある分野について学びながら、さまざまな場所で頻繁に議論している。また、コミカレのときは学生の年齢層に幅があったが、コロンビア大学では年齢が近い学生ばかりだった。そして設備の充実が目立った。図書館は大小含めて20近くあり、寮、ダイニングホール、体育館等、学生が各々の興味を追究できる環境がそろっている。また、私がコロンビア大学在籍中にアメリカ大統領選挙があり、2008年9月11日にオバマ氏(コロンビア・カレッジ卒業生)とマケイン氏(娘さんがコロンビア・カレッジ卒業生)がキャンパスで討論した。コロンビア大学のシンボルでもあるロウ記念図書館の目の前に巨大スクリーンが置かれ、学生が集まって討論を見ていた。このようなイベントも、世界的に有名な大学だから実現するのだろう。

コロンビア大学のバトラー図書館(写真提供 大出歩美)

課題の量はコミカレより相当多かった。特にリーディングの量には圧倒された。多いときは1週間で200〜300ページ読む必要があった。その他、毎週レポートや小テストがあったり、論文が毎学期2本課される等、課題のことを常に気にしていた。コミカレのときよりも、授業内容はさらに難しくなっていた。自然に毎日の生活の中で勉強の割合が増えていった。ただ、周りも友人も同じ状況のため、皆で頑張っているという感覚があった。

課題が多く、キャンパスの寮に住んでいると、図書館に通う回数が自然に多くなった。いつの間にか、毎日授業前後には図書館にいるようになる。コロンビア大学で一番大きなバトラー図書館は24時間オープンしており、いつでも立ち寄れる。中には多数の部屋があり、地上階ラウンジでは学生が話している。その横には売店もある。各部屋はレイアウトや雰囲気が違うため、それぞれが好きな部屋で勉強していた。そして、グループで議論するときや相談するときはラウンジに集まる、という勉強スタイルが確立された。図書館はただ勉強するだけでなく、友人や勉強仲間との交流の場となっていったのだ。試験前は学生同士で席の取り合いになる。私はバトラー図書館の210という部屋が一番気に入り、いつもそこで勉強していたので、いつしか友人には「バトラー図書館のRoom 210はあゆみの部屋」と言われるようになった。

コロンビア大学在学中の私の誕生パーティーで(写真提供 大出歩美)

コロンビア大学ではコミカレのときにはできなかった寮生活を経験した。友人や勉強仲間といつでも会え、教室や図書館のすぐ近くに住めるという点で、多くの利点があった。友人とはさまざまなトピックについて時間に関係なく議論した。キャンパスのソファーに寝ながら、芝生に座りながら、朝5時まで経済、政治、教育、人間関係について議論したことを覚えている。図書館は24時間開いているため、夜中の3~4時まで勉強して寮に戻ることも可能だ。各寮の入り口には警備員が必ずいて、寮に入るためには毎回IDを見せる必要があった。セキュリティー面でも安心できた。

コロンビア大学の魅力のひとつは、マンハッタンに位置していることだろう。世界中の人とモノと文化が集まる町である。メトロポリタン美術館、セントラルパーク、カーネギーホール、国連本部、ウォール街、ブルーノート、5番街、ソーホー、タイムズスクエア、ブロードウェイ、エンパイアステートビル、自由の女神など世界的に有名な建物・文化が点在している。時間があれば友人とさまざまな場所に出かけた。また、授業でもニューヨークというロケーションを活用している。例えば、ジャズのクラスを取ったとき、ジャズコンサートを3回聴きに行ってレポートを提出する課題があった。ほかにも美術の授業を取れば、美術館レポートを求められた。コロンビア大学に在籍していた夏、私はマンハッタンの中心地に位置するニューヨーク大学で夏学期を受講した。そのときはソーホー近くの寮に住み、ニューヨークの街を他の学期以上に楽しむことができた。

卒業

コロンビア大学の卒業式(写真提供 大出歩美)

実は、コミカレからバーナード・カレッジに編入するとき、移行できたのは48単位のみだった。しかし、夏学期を受講したり、毎学期平均より多くの単位を取って、最終的には無事2年間で卒業できた。バーナード・カレッジの卒業式では、ヒラリー・クリントン氏がスピーチした。コロンビア大学全体の卒業式は晴天で、お祭りのような雰囲気の中、無事式が終了した。私の家族も日本から参列して、日本の大学の卒業式とは違う、にぎやかで盛大な卒業式を経験した。

卒業後、私は日本に帰国した。東京には、4年前に渡米するときとほぼ同じ景色があったが、私の意識は大きく変わっていた。

日本にいたとき、私は閉塞感を持っていた。自分らしくいられず、自分は何が好きで、将来何をしたいのか、ゆっくりと自分を見つめることができなかった。しかし、留学を通して日本以外の国や人や文化を知り、初めて自分探しをすることができた。

いくつかの学校に通い、実際に教育を受けてきた私は、教育に携わりたいと強く思うようになった。他の国と比べて教育の現場でもグローバルな日本人が少ないと感じていたので、グローバル化する世界で活躍できる人材輩出に携わりたいと思う。自分探しの旅は始まったばかりだ。留学したことが私にとって最初の一歩だった。旅はまだまだ続くのだ。

 

大出歩美

 コロンビア大学バーナード校を2009年に経済学専攻で卒業。コロンビア大学在学中にニューヨークの地元日系新聞社と共同通信社ニューヨーク支局でインターンを経験。小学校から高校まで日本の公立学校に通い、語学学校に3カ月間、米国西海岸の短期大学に2年間、コロンビア大学に2年間在籍し、ニューヨーク大学で夏学期を受講するなど、さまざまな機関で教育を受ける中で、日本の教育の問題点に気付き、教育分野で活動していくことを決意。グローバルに活躍できる人材をより多く輩出するために、現在は日本の人材育成支援企業で勤務している。