宇田川サーシャ

宇田川サーシャ

私の両親は昔から、離婚した夫婦というよりも古くからの友人のようです。今は別々の都市に住んでいますが、2人は家族の集まりで会うと、いつもうれしそうに抱擁し合い、互いに子どもや孫たちの近況を報告しますし、今でも誕生日プレゼントや家族写真を交換しています。私が幼かったころは両親はまだ結婚していましたが(離婚したのは私が6歳の時です)、2人を夫婦として思い描けたことは一度もありません。

これまでに両親の復縁を願ったことはないと思います。私はいつも家族をありのまま受け入れてきました。私が幼い時でさえ、両親が別々の場所で暮らしていても違和感は全く感じませんでした。離婚した時、両親は私に、父は家から出て行くが会いたければいつでも会えると言いました。「親権」や「面会」について耳にした記憶はありませんが、両親はこうした問題を2人で話し合ったに違いありません。当時を思い返せば、彼らはおそらく非常に難しい時期を過ごしながら、私たちには全てがいつもと同じで円満に見えるよう懸命に努力していたのでしょう。2人の努力のおかげで、子どものころに両親が衝突、対立していたという記憶はありません。

英国に住んでいた頃の私(写真右)と姉

後に離婚のためにとてもつらい経験をする家族を描いた映画を見たり本を読んだ時、私は自分の人生はそうした状況と全く無縁だと思いました。両親が離婚したからといって、自分たちが「壊れた」あるいは「欠陥のある」家族だと思わなければならない理由はありませんでした。離婚は確かに結婚の理想的な結果とは言えませんが、人によってはそれが唯一の選択肢となる場合もあります。子どもの大半は両親が永遠に別れずにいることを望むでしょう。しかし家族が離れ離れになったとしても、親が自分たちにとって正しいと思うことを選択せねばならない場合もあるのです。私は両親が離婚を決心してくたことに感謝しています。なぜなら彼らはそれぞれの人生を歩めたし、私は両親のそれぞれと幸せで健全な関係を持てたからです。

私がまだ赤ちゃんのころ、私たち家族はウィスコンシンからロンドンに引っ越しました。彫刻家の父が重い道具をたくさん運ばなければならなかったので、飛行機でなく当時の遠洋定期船クイーン・エリザベス号で旅をしました。英国に12年間住みましたが、その間に両親が離婚しました。両親が離婚した時、私たちは英国北部に住んでいましたが、父は離婚後すぐにロンドンに引っ越しました。学校が休みになると、母は私と姉をロンドン行きの電車に乗せ、父が到着した駅まで私たちを迎えに来てくれました。

父の家に着くと、母との居心地の良い住み慣れた生活とは全く違う世界に踏み込んだようでした。父は工業地域の古い倉庫の一角にある広い芸術家用のロフトに住んでいました。彼は美術館、画廊のオープニングイベント、他の芸術家たちとの夕食会などに私たちを連れて行ってくれました。父が彫刻の仕事をしている間、私たちはアトリエで読書や遊んで過ごしました。父と過ごせてうれしかったのですが、時々退屈し、家に戻って母や近所の友達と一緒にいられたらいいのにと思うこともありました。当時父はテレビを見るのが好きでなかったので、アトリエにはテレビもありませんでした。しかし今になって思えば、私たちが家族として成長する上で、また父と私たちの関係において、こうした時間はとても重要でした。父と話したり、日常的なことをしたりして多くの時間を一緒に過ごしたからです。

両親と姉と一緒に。前列右が私

その後父はふるさとの米国が恋しくなったのと、ロサンゼルスの芸術の世界に魅了されたため、ロサンゼルスに移ることを決めました。父が引っ越せば以前ほど頻繁に父に会えなくなるので、私と姉にはかなりショックでしたが、同時に父をロサンゼルスに訪ねるチャンスを思いワクワクしました。母は米国市民ですが、当時英国で快適な生活と親しい友人のネットワークを築き上げていたので、英国を離れたがりませんでした。父は米国に移った後、電話や手紙や小包などの手段を使った「遠距離子育て」を通じ、私たちとの接触を保つよう努めました。母も父のことを話したり、電話や手紙で連絡するよう私たちに促して、私たちが父との関係を維持する上で重要な役割を果たしました。まだインターネット時代の到来以前だったので、残念ながら現代の多くの家族のように、携帯電話や電子メール、ウェブ画像を使って連絡を取り合うことはできませんでした。

夏休みを父と過すため初めて飛行機でロサンゼルスに向かった時、私と姉はとても興奮しました。ロサンゼルス中心部にある父のアトリエに着くと、その広さと、彼が私たちのためにアトリエのロフトに作ってくれた和風の寝室に驚きました。この旅ではディズニーランド、ハリウッド、ビーチ、リトルトーキョー、チャイナタウンなどたくさんの刺激的な場所を訪れました。私にとって幸せな思い出に満ちた夏となりました。

しかし困難な時期が待ち受けていました。父がロサンゼルスに移って数年後、母は厳しい選択を迫られました。父と大西洋を隔てて生活していては、私と姉が父との関係を維持するのは難しいと母が気づいたのです。父の強い勧めもあり、母は私たちもロサンゼルスへの引っ越しを決意しました。12年間の英国生活を経て南カリフォルニアに移ることは、私たちにとって大きな変化であり、私たちの家庭生活は初め、緊張と不安だらけでした。しかし、しばらくすると状況は落ち着きました。ロサンゼルスに住んで最も良かったのは、ほとんど毎週末を父の家で過せたことでした。おかげで私たちは、十代の頃ずっと父と緊密な関係を維持できました。

新しくできた家族と共に(前列左が私)

私が高校を卒業し大学に行く時は、両親ともに卒業式に出席し、大学の寮への引っ越しを手伝ってくれました。しかしそれ以降、家族構成が多少変化しました。父が再婚し、私の弟にあたる2人の息子が生まれたのです。弟たちは私より20歳ほど若く、一緒に住んだこともないので、私が彼らを弟と呼ぶのは不思議な感じがします。父と継母が夜、出掛ける時には、私が時折弟たちの子守りをしたものです。彼らは私よりずっと年が下ですが、それでも私の家族の重要な一員です。最近父に電話した時、弟が電話を取りました。一緒に過ごした時間も少なく、もう5年以上も会っていないにもかかわらず、私たちはごく自然に会話しました。継母は母としては年齢が若すぎるので、私は彼女を母親ではなく友人と考えています。でも彼女は私の重要なお手本になってくれています。彼女の助言と支援なしでは、私は今のような人間に成長できなかったでしょう。

母の人生にも変化がありました。母がある男性と出会い、同居するようになったのは私の大学在学中で、今でも2人は一緒に生活しています。彼は住宅建築家で、2人は長年にわたり、共同で素晴らしい住宅の設計やリフォームをたくさん手がけてきました。私が娘たちを連れて日本から訪ねて行くと、いつも私たちが居心地よく滞在できる場所を提供してくれます。私の娘たちは彼を「おじいちゃん」、私の継母を「おばあちゃん」と呼びます。私は娘たちに、普通の子どもよりも多くの祖父母がいて幸せだとよく言います。

母はこれまでずっと、愛情、助言、家庭料理、経済的支援など私が必要とするものを全て与えてくれました。しかし母が安定した、愛情あふれる家庭環境を与えてくれた一方で、父は私に危険を冒してでも思い切ってやってみること、そして自分の周りの世界に敏感であることことを教えてくれました。一方の親が子育てに必要な全てを提供できたとしても、もう一方の親との接触がバランスや異なる視点を提供します。継父母も実際に養育に参加したり、子どもの良き模範となることで、子育てに貢献できます。離婚した両親、継父母、パートナー、継兄弟姉妹、異母・異父兄弟姉妹などで構成される家族は、多様な人生のパッチワークのようなものです。時にはちぐはぐに見えますが、通常は独自の方法で完璧に機能しています。

宇田川サーシャ
カリフォルニア大学サンディエゴ校で視覚芸術の学位を取得。1991年に英語講師として来日し、後に和英翻訳者として働く。2009年4月より在日米国大使館広報・文化交流部の編集者。既婚で2人の娘がいる。