エイドリアン・ミラー

フライドチキンは世界で最も美味しく人気の食べ物の1つで、中でもアメリカンスタイルは代表的な存在です。アメリカのフライドチキンは、鶏肉を骨付きで大きめのサイズに切り、味を付けた小麦粉をまぶし、油で揚げる基本的な料理です。長い歴史の中で南部のアフリカ系アメリカ人の料理人は、フライドチキンの調理法を芸術の域にまで高めたことで高く評価されてきました。やがて彼らは、このごちそうの広まった評判を利用して、地域社会を築き、家族の絆を深め、富を築いていったのです。

著者のエイドリアン・ミラー

著者のエイドリアン・ミラー

その世界的な人気のため、多くの文化がフライドチキンを自分たちのものだと主張しています。西アフリカが発祥の地だとする人たちもいます。それは、アフリカ系アメリカ人の先祖の故郷であり、中世から鶏が広く普及していたからです。また、この地域の料理人は、何世紀にもわたり食べ物を揚げて調理してきました。しかし、西アフリカの人々が伝統的に鶏肉料理を作る方法は、一般的にフリカッセと呼ばれているものです。骨抜きして小さくカットした肉を薄くひいた油で炒めて素早く表面を焼き、野菜と一緒のソースで煮込むものです。

また、フライドチキンの本当の起源は西欧、特にスコットランドと考えるべきという意見もあります。1600年代から1700年代にかけ、その地域の人々が、ある種のフライドチキンをイギリス領北アメリカに持ち込んだのは確かです。ちょうどフライドチキンのレシピがイギリスの料理本に登場した頃です。このレシピは、後に1800年代初頭に登場したアメリカの同じ料理のものと非常によく似ています。異なる点は、フライドチキンがイギリス料理の中では決して大きな存在ではなかったのに対し、イギリスからやってきた南部の奴隷制植民地支配者たちは、フライドチキンを代表的な料理に仕立て上げたということです。白人奴隷所有者は、奴隷となったアフリカ系アメリカ人に南部のプランテーションのキッチンでフライドチキンを作らせました。何年もの試行錯誤を経て、奴隷の料理人たちは調理に熟練していきます。このようなルーツをたどり、「南部」のフライドチキンは、地域で親しまれる食べ物からそのまま「フライドチキン」という名の国民食へと発展し、ついには世界的な現象となったのです。

テネシー州ナッシュビルを拠点とする全米チェーン「ハッティ・ビーズ・ホット・チキン」が提供するチキン料理

テネシー州ナッシュビルを拠点とする全米チェーン「ハッティ・ビーズ・ホット・チキン」が提供するチキン料理

フライドチキンが主流になると、アフリカ系アメリカ人もそれを自らの文化として受け入れました。だからといって、始終チキンを食べていたわけではありません。フライドチキンの調理は非常に手間のかかるもので、20世紀以前はそれほど頻繁には食べられていませんでした。鶏を絞め、羽をむしり、内臓を取り除き、食肉用に処理し、味付けし、粉をまぶし、調理しなければならなかったのです。これら全てに時間がかかるので、料理人がフライドチキンを作るのは、週末の食事や特別な機会に限られました。また、幅広い調理法も人気を高めることになりました。数世紀続いた基本的なレシピを基に、料理人は想像力を膨らませ、さまざまな材料を使って鶏肉をマリネしたり(あるいはしなかったり)、味付けしたり、コーティングしたり、揚げたりしました。その上、フライドチキンは熱くても常温でも冷たくても美味しいのです。どこに行っても人気があるのがうなずけます。

アフリカ系アメリカ人は、フライドチキンが主役となる共同体のイベントに押し寄せました。人々は夏の間、独立記念日(7月4日)のお祝い、市民行事、教会の集まりなどでフライドチキンを楽しみました。信仰生活におけるフライドチキンの役割は特に注目されます。数多くの宗教的儀式で動物が使われていた西アフリカでは、鶏は神聖な意味を持つようになり、奴隷となったアフリカ人は、その精神的な慣行をアメリカ大陸にも持ち込みました。南部のアフリカ系アメリカ人はフライドチキンを、教会での礼拝後に皆で食事をとるために「持参する」料理にしました。それは、多くの人たちで食べることができたからです。地理的に孤立した南部の田舎では、教会は家族や友人と久しぶりに会って話す重要な場所でした。このように、教会はより結束力のあるコミュニティーを構築する精神的かつ社会的に重要な施設でした。アフリカ系アメリカ人の牧師たちは、おいしい食べ物が集会の規模拡大に役立つことを、かなり早くから気付いていたのです。

フライドチキンはまた、貧しい人々が多く通う教会で、牧師に感謝の気持ちを伝える大切な手段でした。礼拝の後、牧師はよく信徒の家を訪ね夕食をとりました。もちろん彼らは、料理上手と定評のある信者の家を選びました。牧師は賓客として真っ先に給仕され、「牧師の部位」として知られるフライドチキンの最上の部位でもてなしを受けました。このように、フライドチキンには宗教的な意味合いがあったので、「ゴスペルバード」や「サンデークラック」(訳注:クラックは鶏の鳴き声)というニックネームが生まれました。これらのニックネームはその後も残り、牧師が一緒かどうかにかかわらず、アフリカ系アメリカ人の家庭で日曜日の夕食にフライドチキンを食べるという伝統が維持されることとなりました。

アメリカンスタイルのフライドチキン

フライドチキンはまた、奴隷制時代であっても多くの収入を得る機会を生み出しました。奴隷所有者の多くは、奴隷となったアフリカ系アメリカ人が鶏を飼育するのを許可しました。そのため彼らは、鶏を非常に大切にしました。与えられたわずかな余暇を利用して近くの市場に行き、生きた鶏や卵、フライドチキンなどを物々交換したり、売ったりしました。その結果、自分の自由を取り戻せるだけのお金を稼いだ奴隷もいたのです。

アフリカ系アメリカ人は奴隷解放後、思うままにフライドチキンを作り売ることができるようになり、その多くが与えられた新たな機会を活用しました。フライドチキン作りの腕に定評のあるアフリカ系アメリカ人は、個人宅やホテル、レストラン、蒸気船、豪華列車などで調理をすることで、より良い賃金を得ることができたのです。南部以外の都市の有名レストランでは、こういった料理人が採用され、顧客は本物の南部の味を楽しむことができました。また、食べ物を売ることのできるあらゆる場所で、フライドチキンの屋台が増えていきました。よく知られているのは駅の構内です。1800年代後半、バージニア州のゴードンズビル駅で食べ物を売っていたアフリカ系アメリカ人の女性たちは、フライドチキンやパンを詰め合わせたバスケットを窓越しに乗客に売っていたことで有名です。

何百万人ものアフリカ系アメリカ人が南部の農村部から都市部に移動すると、起業家たちはフライドチキン専門のレストランをオープンしました。中には、複数の店舗を運営するほど成功を収めたケースもありました。フライドチキンは、他のどのアフリカ系アメリカ人の料理よりも、富や中流階級という社会的地位を生み出したのです。

アフリカ系アメリカ人にとって、フライドチキンのトレンドは大きく分けて4つあります。まずは、フライドチキンとワッフルの組み合わせです。「ワッフルチキン」と呼ばれるこの組み合わせの誕生は、数世紀前にまでさかのぼりますが、1990年代に人気が再燃しています。もう1つのトレンドは、鶏肉を揚げた後にチリペーストに浸した激辛バージョンです。この激辛料理は、通称「ナッシュビル・ホットチキン」として知られています。興味深いことに、煮込んだコラードの葉やマカロニ・アンド・チーズのような他のソウルフードをフライドチキンに詰めた料理も人気です。また、肉を使わないバージョンが全米各地に登場しています。ビーガンレストランでは、料理人は一般的に豆腐を使い、調理過程では生の鶏肉と同じように扱います。出来上がりはフライドチキンのように見えますが、食感や味は異なります。

ルーズフードバーの「ナッシュビル・ホットチキン」。テネシー州ナッシュビル

ルーズフードバーの「ナッシュビル・ホットチキン」。テネシー州ナッシュビル

この記事は日本の読者向けですので、フライドチキンについてもう少々情報をお伝えしなければと思います。それは、アメリカではクリスマスにケンタッキーフライドチキンで食事をする人はいないということです。その日、レストランはどこも閉まっているからです。そう、がっかりですよね。でもありがたいことに、その日以外は1年中いつでもフライドチキンを楽しめるのです!

エイドリアン・ミラーは、「料理界のアカデミー賞」と言われるジェームズ・ビアード賞を受賞した作家。コロラド州デンバー在住。