ヒラリー・渡辺千里・ダウアー 在沖米国総領事館首席領事

幼い頃の記憶だが、祖父が「浦島太郎」の話を使ってアインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論の説明をしてくれたことがあった。乙姫のいる竜宮城から村に戻った漁師は、留守にしていたのはほんの数日と思っていたが、実は長い年月が流れていたことに気づく。

「これは地球から相対速度で宇宙に行く人に起こる現象だよ」と祖父は教えてくれた。地球に戻ってくる宇宙飛行士は数時間しか経っていないと感じていても、実際に地球側では長い年月が経過している。私は浦島太郎の話を悲しいとは思わなかった。なぜなら、宇宙旅行への期待と時空が歪んでいることに心を奪われていたからだ。もしかすると、アインシュタインの理論を小学生の頭で必死に理解しようとしていたからかもしれない。

この話は私にとって別の意味合いを持つ。私の家族は数世代にわたり、日本を離れては戻るということを繰り返してきた。私も例外ではない。在沖米国総領事館首席領事に就任した3年前、日本にルーツを持つものとして、自分のユニークな経験と家族の歴史をもって日米関係に貢献したいと考えていた。 

子供の頃の日本の印象 

私は1975年、カリフォルニア州南部にあるサンタバーバラ近くのゴリータという町で生まれた。家での日常語は英語であったが、おば、おじ、いとこは、父、祖父、祖父母とほぼ日本語で話をしていたため、小さい頃から日本語を聞いていた。3歳、6歳、9歳、11歳の夏休みは日本で過ごした。ある夏、父、祖父と松本城を訪れ、そこで2人から「我が家のルーツはこのあたりにある」と聞かされ、日本とのつながりを意識するようになった。

私の先祖は長野県岡谷市の出身だ。封建制度が廃止される前まで高島藩が治めていた場所だ。先祖のうち3人は大臣を務めている。曾曾祖父の渡辺千秋は宮内大臣、千秋の弟で、千秋の息子を養子にした国武は大蔵大臣と逓信大臣、曾祖父の千冬は司法大臣であった。 

岡谷市の旧渡辺家住宅で、曾曾曾祖父である渡辺斧蔵が描いた絵を見学するヒラリー・ダウアー(左)。2016年3月撮影

岡谷市の旧渡辺家住宅で、曾曾曾祖父である渡辺斧蔵が描いた絵を見学するヒラリー・ダウアー(左)。2016年3月撮影

しかし子供の頃の一番の思い出は、なんといっても東京だ。街のネオンから色とりどりのタクシー、コンクリートミキサー車、ゴミ収集車にいたるまで、すべてが刺激的であった。中でも一番印象に残っているのが電車だ。1980年代の東京を走っていた通勤電車は、クロムメッキに色帯が一本入った今のようなつまらないデザインではなかった。緑、青、オレンジ、黄色、赤色と鮮やかな色に身を包んだ車体だった。くすんだ土色のシャパラルの低木林に覆われた小さなカリフォルニアの町に比べたら、東京は別世界であった。

13歳の時、父が国際基督教大学で教壇に立ち、カリフォルニア大学東京スタディセンターのディレクターになったため、東京に2年間住むことになった。西町インターナショナルスクールに通った。学校は基本英語であったが、日本語が必須科目で毎日授業があった。

15歳の時にサンタバーバラに戻ったが、とにかく東京に戻りたくて仕方がなかった。大学に進学する唯一の目的は、日本への留学だとかなり本気で考えていた。そしてその夢を実現した! 1995年から1年間、交換留学生として父のかつての職場、国際基督教大学に通った。 

物理学者の「浦島太郎」解釈 

私の祖父はフランス政府給費生として、1933年からパリに留学、物理学を学んだ。そこで祖母と出会ったのだ。2人は1937年にドイツのライプツィヒに移る。父が生まれたのは2年後の8月17日、ドイツがポーランド侵攻に向け準備を開始し、ヨーロッパで第2次世界大戦の火ぶたが切られようとしていた頃だった。第1次世界大戦中のドイツでの略奪や破壊を覚えていた祖母は、このような事態を避けたいと思い、祖父と一緒に日本に行くことに同意した。父は生後数週間で日本に行き、3人は戦時中を日本で過ごした。 

戦争が終わると、3人はアメリカに移住。父は祖母に続き、1954年にアメリカ国籍を取得したが、祖父はアメリカに移住した後も日本国籍を維持した。日本人であることをとても誇りに思っていたのだ。この祖父の存在が私に大きな影響を与えた。祖父は科学を教えてくれただけでなく、日本人としてのアイデンティティーを私に意識させてくれた。 

家族の絆としての2国間関係

国際基督教大学での留学生活を終え帰国した私は、カリフォルニア大学サンディエゴ校で政治学を勉強した。その後エール大学大学院に進学し、国際関係学で修士号を取得した。大学1年生の時、国務省の採用担当者が大学に来て外交官の仕事について説明してくれた。自国のために働きながら冒険に満ちた生活を送れるこの仕事に心惹かれた。また日本の外務省で大使を務めていたおじの存在も私を国務省に導くことになった。2003年11月、私は国務省に入省した。日本に赴任する前は、ワシントンDCでの本省勤務に加え、インド、シリア、イラク、インドネシアに勤務している。

日本で過ごした4年半から気づいたことがある。日米の「揺るぎない」同盟関係について語る時、これは単なるキャッチフレーズではないということだ。揺るぎない関係とは日本との血縁を表す。私だけでなく、国務省や軍、またそれ以外の分野で日米関係に携わる仕事をしている多くの日系人が日本と血のつながりを持つ。私たちは日本にルーツがあることから、政府レベルだけでなく個人的にもつながっている。私は日米関係を大家族のようにとらえている。それは仕事をする上でのモチベーションとなっている。

沖縄では、自分の経験や生い立ちから、沖縄に駐留する米兵と地元住民との架け橋になりたいと努めてきた。先祖のふるさとである長野県岡谷市とは、再びつながりを持ち、地元のお祭りに参加する大切さをあらためて実感、地域の一員となることができた。例えば、岡谷周辺で昔から続く祭事に御柱祭がある。この祭りでは人々が切り倒した木に乗り、急な斜面を滑り落ちる。気弱な人向けのお祭りではないが、地元の人が沖縄市のエイサー祭りや那覇市や読谷村で行われる伝統的な綱引き大会を話す時に、彼らとつながりを築くきっかけとなっている。米軍基地がある沖縄の町や市とつながりを築くことで岡谷の人々に思いを寄せ、長野の小さな町で引き継がれてきた価値観を大事にしたいと思う。

岡谷市の平福寺を訪れたヒラリー・ダウアー。渡辺家の遠い祖先がまつられている

岡谷市の平福寺を訪れたヒラリー・ダウアー。渡辺家の遠い祖先がまつられている

沖縄赴任が終わりに近づく中、相対性理論についてより深く考えるようになっている。動きの影響、つまり重力があるため、ある場所の時間が別の場所と相対的に異なる速さで流れているように感じる。私は相対性理論をこのように理解している。私が初めて日本に来たのは3歳の頃であった。40年が経った今、いろいろなことがあったにもかかわらず、時が全く流れていないように感じられる。東京の公園で遊んでいたあの頃が、昨日のことのように思い出される。大ざっぱに言えば、相対性理論では重力が時空をゆがめる。ある意味、家族への思いという「重力」が私を日本に引き寄せ、時間の流れという感覚を圧縮したのだろう。これは、父、祖父、そして遠い先祖の人たちも同じであったろうと思っている。

バナーイメージ:岡谷市より諏訪湖を望む。2019年に現地を訪れたヒラリー・ダウアーが撮影