メリー= ジェーン・アトウオーター モーリーン・アンド・マイクマンスフィールド財団 広報部長

メリー= ジェーン・アトウオーター モーリーン・アンド・マイクマンスフィールド財団 広報部長

マイク・マンスフィールド元駐日米国大使は、かつてこう言いました。「… 長い目で見れば、活発な交流プログラムこそが、アジア太平洋地域の人々との信頼関係をもたらす確かな方法だ」

この発言をした時、マンスフィールド大使は思いもよらなかったでしょう。1994 年に、ウィリアム・V・ロス上院議員(共和党、デラウェア州選出)と、当時ロス上院議員の事務所でインターンとして働いていた、現在参議院議員の林芳正氏 が、米国連邦議会に対して、モンタナ州選出の米国下院議員、米国上院多数党院内総務、駐日米国大使などの要職を歴任したマンスフィールドの名前を冠した、 過去に例のない日米政府間交流プログラムの創設を提案するとは。

今年13 年目を迎えたマイク・マンスフィールドフェローシップ・プログラムは、米国政府内で日本専門家を育成し、日米が共同で行う各種の政策形成プロジェクトを促 進することを目的とする政府間交流プログラムです。本プログラムは、米国国務省から拠出金を受けて、モーリーン・アンド・マイク・マンスフィールド財団が 運営しています。また、日本政府、石川県、トヨタ自動車株式会社、松下電器産業株式会社、ノースウェスト航空、東海旅客鉄道株式会社(JR東海)からも多 大な支援を受けています。

マンスフィールドフェローシップ・プログラムは、参加者(米国人フェローと日本の受け入れ機関)が文化と言葉の壁を越え、信頼できる協力関係を育成・強化する術を身に付ける専門家同士の交流プログラムがいかに重要かを示す顕著な例です。

本プログラムでは、米国連邦政府職員の中から選抜した「フェロー」が、1年目は、ワシントンで日本語と日本に関する研修をフルタイムで受け、2年 目は、日本の官公庁で働いて、日本と日本政府についての理解を深めます。これまでに80 人のフェローがプログラムに参加しています。本プログラムが成功するための重要な要素のひとつとして、日本政府との継続的な協力関係があります。日本政府 は過去13 年にわたり、マンスフィールド財団と協力して、フェローにとって有意義な研修先を紹介し、日本に対する理解を深める機会を提供してくれています。

「典型的なフェロー像」というものはありません。マンスフィールドフェローは、米国連邦政府機関や米国連邦議会でさまざまな分野に従事する専門家 であり、弁護士、エコノミスト、医者、軍人、政策アナリスト、国際貿易スペシャリスト、科学者、リサーチスペシャリストなどです。分野も国防と安全保障、 医療、エネルギーと環境、貿易と経済、電気通信、運輸、教育、銀行など多岐にわたっています。これまでに参加した80人のフェローの出身機関の数は、22 に及んでいます。しかし、フェロー全員に共通する特徴がひとつだけあるとすれば、それは、日本と日本の政府、国民、そして豊かな文化についての知識を深め たいと強く希望していることです。

2年間のプログラムは、まずワシントンDCで10 カ月間、日本語集中研修と日本関係の講義を受けることから始まります。この間に、翌年の日本での勤務について、出身機関の関心、そして自分の専門知識と専 門家としての関心に合わせた詳細な計画を作成します。1年目の終わりに、フェローは金沢での6週間の語学研修とホームステイに参加します。2年目は主に東 京で過ごし、日本政府の各省庁でフルタイムで勤務します。日本人の同僚と会議やプロジェクトに参加したり、時にはアジアのほかの国で開催される国際会議に 出席することもあります。また、短期間、国会議員の事務所や民間企業・機関での研修を希望するフェローも多くいます。さらに、外務省からの財政サポートを 受け、日本語のクラスに出席したり、人事院が主催する研修旅行にも参加します。

日本滞在中にフェローは日本についての理解を深め、それぞれの出身機関の日本関連プログラムや政策形成に役立てます。米国政府での仕事に戻った フェローは、真のインサイダーとしての視点から日本政府を見ることができます。これに加えて、研修期間中に培ったネットワークを活かし、出身機関が日本と の共同プログラムを立ち上げるための橋渡しとなり、2国間の協力と理解を促進しています。あるフェローはこう言っています。「フェローシップを通じてさま ざまな関係を構築し、語学力を培い、日本政府で働く経験をしたことが基礎となって、文化的な隔たりに気づくとともに、さらに重要なことには、その隔たりを いかに埋めるかを理解することができるようになりました」

また、フェローは帰国後も自分の専門知識を他の人々と共有します。国際交流基金日米センターおよび東芝国際交流財団から支援を受け、マンスフィー ルド財団はこれまでに、全米および日本で、フェローをスピーカーとして招き、政策関連の問題について話してもらうアウトリーチ・プログラムを10 回以上企画してきました。 驚くには当たりませんが、このような場でフェローは必ず、日本での経験が、自分の人生を大きく変えてくれたことを話してくれます。 マイク・マンスフィー ルド大使は、2001 年に98 歳で亡くなるまで、毎年、マンスフィールドフェローに敬意を表してワシントンの日本大使館で行われる、駐米日本大使主催のレセプションに、必ず出席してい ました。マンスフィールド大使ほど、フェローとその業績を誇りにし、このプログラムを可能にしている日米協力を喜んでいる人はいないでしょう。実際、マン スフィールド大使には、この交流プログラムにより、今後何年間も日米関係に大きな足跡を残す真の日米コミュニティーが生まれることが分かっていたことで しょう。

2004 年に在米日本大使館で行われたレセプションで記念撮影するマンスフィールドフェロー(写真提供 マンスフィールド財団)

ジョン・ヒル
米国国防総省
東アジア担当首席部長
マンスフィールドフェロー1期生(1995-97 年)

ジョン・ヒル

ジョン・ヒル

マンスフィールドフェローシップ・プログラムに参加する以前、私には日本での経験が全くありませんでした。大学では、主に米国、西欧、北大西洋条 約機構を中心に、国家安全保障を研究していました。米国国防総省では地域を担当する部署ではなく、特定の職務を担当する部署で働いていました。防衛産業が 関係するさまざまな国際問題に対処する仕事をしたり、1991 年の湾岸戦争時には資金問題を扱う部署でも働きました。こうした分野で働いているときに、日本人を相手にすることがありました。仕事をする中で、日米問題 に偶然出くわすことが何度もあり、日米の同盟関係は非常に興味深いと思っていました。

マンスフィールドフェローシップ・プログラムに参加する前に、最も集中して日本と接触したのは、湾岸戦争の時でした。私の所属していた部署は、サ ウジアラビア、アラブ首長国連邦、日本、ドイツなどの国から多額の資金を集めるプログラムをとりまとめ、交渉と遂行の両面でこのプログラムを運営する責任 を負っていました。うまくいったことや、いかなかったことなど、多くのことを目にする機会に恵まれました。このようなことから、私は日米関係についてさら に経験を重ね、この関係は取り組む価値があると思うようになりました。本プログラムが創設されたときには、私が国防総省に入省して10 年近くたっていました。私はしばらくの間、外部で継続教育を受けて経験を積み、国防総省に戻ることにしました。このようなプログラムに参加するには良い時 期に思えたのです。

日本での受け入れ機関は防衛庁(現防衛省)で、具体的には装備局管理課でした。そこでの経験によって、日本の防衛関連の調達制度を理解し、日米両 国が産業面・技術面で協力できる可能性を生み出すことができました。また、経団連や通商産業省(現経済産業省)で、ビジネスの観点から、調達および安全保 障の問題を研究する機会にも恵まれました。

私はマンスフィールドフェローシップ・プログラムの1期生でしたが、その後このプログラムの一部が変更されたと聞いています。それは、当時私たち が直面していた課題、特に語学面の問題を解決するためです。現在はホームステイの機会が加わり、日本国内での語学研修が増えたため、日本語の習得をさらに 進めるためにとても有益だと思います。私が研修を受けた当時は、約10 カ月間の語学研修を受けた後、すぐに現場に派遣されたため、2年目は、日本語を最大限に活用するために、本当に一生懸命努力しなければなりませんでした。 私の場合は、とてもうまく行ったと思います。日本語は私が勉強した最初のアジアの言語でしたが、初めての外国語ではありませんでした。大学でフランス語、 ドイツ語、イタリア語を勉強したので、外国語の勉強の仕方は分かっていました。

私は、多くの専門用語が飛び交う環境に投げ込まれました。それに、日本語の場合は、ビジネスでの表現形式、非常に格式ばった表現形式、丁寧な表現 形式、そして仲間とバーに行くときのようなくだけた表現形式といった、さまざまな使い方があります。ですから、ある言語を、単純で平易な言葉で話すことが できるようになることと、ほかの人たちが、さまざまな表現形式で話している内容を理解できるだけの語いを身に付けることは、別のことです。最終的に私は、 とても硬い、官僚的な日本語の話し方を教えてくれた人々と冗談を言い合うまでになりましたが、近所の人とおしゃべりをするときも、官僚的に聞こえてしまっ たようです。

マンスフィールドフェローシップ・プログラムは、日本人の官僚が持っている米国人に対する固定観念を覆し、逆に日本に対する私の固定観念を変える 機会になったと思います。米国人に対する先入観を持っていた日本人の同僚に出会うと―こういう人は多かったのですが―彼らが持っている固定観念はすべての 米国人に当てはまるものではないという印象を残したいといつも思いました。例えば、皆、米国人はえり好みが激しく、なじみがないものは食べないという固定 観念を持っていたので、いつもこれは食べるか、あれは食べないかと聞かれました。彼らが、私が食べないものを見つけることはありませんでした。

日本人の同僚もまた、私が持っている彼らに対する固定観念を覆してくれました。日本人は夜遅くまでお酒を飲む、などということをいろいろ聞いてい ましたが、同じ職場の多くの人はウイスキーではなくウーロン茶を飲んでいましたし、周りの人に酔っ払いたくないと遠慮せずに言う人もいました。

マンスフィールドフェローシップ・プログラムの後、国防総省に戻ることは、事前にほぼ決まっていました。1997 年9月から1999 年1月まで、私は日本担当課に所属して、ミサイル防衛協力に関する初期の交渉など、国防総省と当時の防衛庁が共同で行う案件の責任者を務めました。 1999 年1月には、国防総省の調達部門から政策部門に移り、日本担当部門を率いることになりました。この部署は、日米同盟の変革や防衛体制に関する交渉を含む、 在日米軍の日米同盟の運営に関する問題や、日本の「不朽の自由作戦」や「イラクの自由作戦」への参加といった問題を扱っています。

私の現在の職責には、日本、朝鮮半島、中国、台湾、モンゴルが含まれています。かつて所属していた部署を監督し、責任の範囲も広がっています。私 のマンスフィールドフェローシップ・プログラムでの経験は、今もかなり役に立っています。なぜなら、日本はアジア太平洋の安全保障分野で、国防総省の仕事 の中心にあるからです。私は今でも、マンスフィールドフェローとして出会った人々と働いています。私の場合は、本プログラムに参加したおかげで、キャリア が大きく変わり、アジア関連の政策分野に進むことになりました。かつて私は国家安全保障戦略と国際関係全般を学びましたが、1995 年にマンスフィールドフェローシップ・プログラムに参加してからは、過去に学んだことをアジア太平洋地域に応用しています。


ジェニファー・スクラルー
米国商務省 国際貿易局日本担当課
国際貿易専門官
マンスフィールドフェロー9期生(2003-05 年)

ジェニファー・スクラルー

ジェニファー・スクラルー

私は沖縄で生まれ、2歳のときに米国へ引越してきました。その後も、学生として函館で、また日本の新聞社のコラムニストとして盛岡で暮らしたほ か、エネルギーおよび貿易コンサルタントや米国商務省日本担当課の国際貿易スペシャリストとしても、期間はまちまちですが、日本に滞在しました。こうした 経験を通じて、私は日本の文化や日米関係のさまざまな側面を理解し、尊重し、大切に思うようになりました。

マンスフィールドフェローとして東京で1年間過ごすことによって、日本の政策形成過程を観察するという、私が日本について理解するためにになくて はならない、またとない機会を得ることができました。また、日本の政府当局者、ビジネスマン、研究者など、さまざまな人たちと意見を交換し、友達になる機 会にも恵まれました。

私が勤務したのは5つの政府機関・事務所です。経済産業省の産業構造課と国際経済室、外務省の北米第2課、内閣府の経済財政運営担当政策統括官 室、そして衆議院議員河野太郎事務所です。これらの事務所で勤務したことで、それぞれの機関が日本の通商・経済政策の形成過程で果たす役割を直に見て、相 互にどのようなやり取りをしているかを知る貴重な機会を得ることができました。

私は日本政府で働く前から、日本の官僚の有名な長時間労働のことは知っていました。フェローとして勤務するうちに、日本と米国の間で政策形成過程 に大きな違いが生じる原因に気づきました。経済産業省や外務省、内閣府では、国会議員からの政策関連の質問に答えるために、同僚たちが深夜まで残って働い ていました。後に国会議員の事務所で働くようになって、その一因が分かりました。国会議員のスタッフは公設秘書が1~3人と非常に少ないからです。米国の 場合、連邦議員には政策関連のリサーチをするスタッフが大勢います。行政府の職員が連邦議会で証言したり、質問に答えたりすることはあるかもしれません が、短時間に議員からの問い合わせに答える書類を作成するために、日常的に残業することはありません。

日本の政策形成過程について学ぶ以外の収穫としては、通商政策分野の日本側担当者と、全く新しい状況で知り合うことができました。彼らは、交渉 テーブルの向こう側ではなく、自分の職場で仕事をしていました。私たちは、2国間交渉で従来から議論してきた分野以外の問題についても意見を交換したり、 協力したりして、より多面的な関係を構築することができました。例えば、両国の高齢化社会のような国内問題のほか、外国人労働者と移民のような国際的な問 題についても議論しました。

政府機関での勤務に加えて、日本の政策立案者と話をする機会を2回得ることができ、政府機関同士の交流やそれが政策形成過程に及ぼす影響について新たな見方をすることができるようになりました。

まず、複数の省庁で順番に働く間に、エネルギー問題に関する経済産業省の勉強会に参加・見学させてもらいました。これまで米国政府で働いてきた経 験では、政策形成の基礎になってはいるけれども、それに直接結び付いていない、意見や情報の交換を中心とするこの種の討論グループは、米国では見たことが ありません。私は、現在のエネルギー問題の国際的・国内的な側面について協力して検討する、このような集まりに参加することを楽しむことができました。

次に、政府だけでなく民間も参加する、課長補佐級人事院行政研修に参加する機会にも恵まれました。この2週間のプログラムを通じて、さまざまな日 本の政府機関・民間企業の人たちと知り合うことができました。私が参加した研修は、経済政策と構造政策を中心にしたものでした。このような多様な経歴を持 つ仲間と国内および国際的な問題を議論することによって、失業、政府の効率性、対中関係など幅広い問題について、日本の政府や民間部門の中でも、さまざま な考え方があることが分かりました。また、こういう機会がなければほとんど、あるいは全く接触がなかったであろう政府機関や民間企業の人たちと友達になる ことができました。

フェローシップ期間中に始まった交友関係を維持し、日本の政策形成過程についての理解を深め、それを生かし続ける中、フェローシップ期間中のこうした経験はすべて、私の今後の日本との仕事にプラスの影響を及ぼすことと思います。

注:ここで述べられている意見は著者自身のものであり、必ずしも米国国務省の見解を表すものではありません。


エイミー・マコール
米国空軍横田基地 設備・ロジスティック部門
空軍中佐、ロジスティック担当主任
マンスフィールドフェロー10 期生(2004-06 年)

エイミー・マコール

エイミー・マコール

マンスフィールドフェローとして日本政府で1年間働くことができて、私はとても幸運でした。このような機会を与えてもらった感謝の印として、その時の経験についてお話しましょう。

マンスフィールドフェローシップ・プログラムの募集案内を目にしたとき、私は空軍の参謀将校としてペンタゴンで働いていました。これまでとは違う ことをしたいと思っていたところだったので、応募することにしました。応募手続きも、ワシントンDCでの1年間の日本語研修も、どちらも簡単ではありませ んでしたが、何とか終えることができてうれしく思っています。

東京で私を待っていたのは、生涯心に残る経験でした。まず、防衛庁(現防衛省)の運用課で仕事をしました。その後、内閣府の平和維持活動担当部署 に移り、最後は航空自衛隊幕僚監部装備部で仕事をしました。私は、日本がどのように自衛隊を国際任務に使うか、あるいは使うことができるかを知りたいと 思っていましたが、それ以上のことを学ぶことができました。

日本政府の長時間勤務、徹底的な調査と階層型の組織を経験したことによって、何人かの非常に熱心で知的な人々に出会うことができました。ありがた いことに、彼らは、ゴラン高原での平和維持活動やイラクへの支援、インド洋での補給活動などについて、とても辛抱強く私に説明してくれました。

空軍の後方支援担当官という仕事柄、私は単純に、航空自衛隊のC-130 輸送機が、自衛隊が国際支援を行うときの唯一の装備だと決め込んでいました。しかし、海上自衛隊の補給能力や人道的支援能力、そして陸上自衛隊のエンジニ アリング分野での評判を知って驚きました。自衛隊の基地を視察して、1年を通じて発生する災害によって危機に直面している日本の地域社会を支援するために 彼らが使う装備や訓練を見て初めて、災害救助が自衛隊の主要任務のひとつであることを知りました。

最後に、私が日本語を話すのはあいさつがやっとなのに、どこに行っても日本政府の人々は、完璧な英語を使って、自衛隊の国際任務を承認する際の政 府の手続きについて詳しく、ニュアンスまで含めて説明してくれました。このときに私がどれほど感心したかは、とても言葉では言い表せません。私は、国際的 な任務を遂行する機会を待ち望んでいる防衛大学校の学生、イラクでの4回目の任務から戻ってきた自衛官、自衛隊員としてのキャリアを始めたときには日本を 離れることなど予想もしていなかったにもかかわらず、今は日本を離れて任務を遂行するという考えを促進している自衛隊幹部と話をしました。

残念なことに、私は2006 年8月に研修を終えなければなりませんでした。その後、防衛庁は防衛省となり、国際支援は自衛隊の主要任務のひとつになりました。そのためもありますが、 研修がとても楽しかったので、できることならばもう一度プログラムに参加したいほどです。けれども、米国空軍が私に最適な勤務地と判断したのは横田で、現 在、航空自衛隊の航空幕僚監部の後方支援担当官と共に、2国間の後方支援に関する問題を処理しています。

私は今も、米国と日本、あるいは日本とアジア地域の他の国が力を合わせ、自衛隊の技能と能力を利用して、この地域の災害救援活動を行うにはどうす ればいいか、考えています。けれども、こうしたことは、マンスフィールドフェローとして知り合った、政治家や学者などの非常に聡明な人々に任せることにし ます。私は2国間の演習や訓練のための後方支援計画を策定することを楽しんでおり、時々市ヶ谷を訪れると、マンスフィールドプログラムのときに使っていた デスクに戻り、しばしあのころの生活を思い出しています。