高安 藤

琉球王国の宝物

1879年3月に450 年も続いた琉球王国は消滅した。明治政府の琉球処分によって王国から沖縄県になったのである。首里城は明け渡され、国王尚泰(しょうたい)は東京に移され た。その時に王家の多くの美術工芸品や文書なども東京に移された。これらの文物は東京の尚家邸で大事に保管されていたが、最近になって那覇市に寄贈され、 現在那覇市歴史博物館に収蔵されている。

一方、沖縄においては、首里城の向かいにあった中城御殿(なかぐすくうどぅん)が尚家邸となり、沖縄に残された文物はこの中城御殿に保管されてい た。1945年、沖縄戦が一層厳しくなると、中城御殿の職員8人は王冠や沖縄の万葉集ともいわれる「おもろさうし」を含む貴重な王家の文物をまとめて敷地 内にある側溝に隠し、避難させた。戦争が終わって戻ってみると、中城御殿は焼失し、隠してあった王家の文物はすべて持ち出されていた。

戦後何年かして「おもろさうし」が米国で発見され、1953年にペリー提督来琉100 周年記念に米国大統領の名前で沖縄に返還された。発見に至るきっかけは、これらの文物を持ち出したとされる元米軍人のカール・スターンフェルトが、ハー バード大学の教授に「おもろさうし」の鑑定を依頼したからである。しかし、王冠や国王の肖像画、漆器類を含め何十点かの文物はいまだに行方がわからない。 復元された首里城には歴代国王の肖像画が掛けてあるが、それらは戦前に撮影された白黒の写真である。色鮮やかな御後絵(おごえ=国王の肖像画)の原物が見 つかるまで、琉球国王の肖像画は白黒のままである。

クリントン大統領来沖

2000年に沖縄で開催されたG8サミットのため、クリントン大統領が来沖することになった。在沖縄米国総領事館は在日米国大使館と米国国務省 に、中城御殿から持ち出され、いまだ行方が分からない文物の1点でもいいから見つけ出して、沖縄に返還してくれたら大変喜ばれると提案した。残念ながら見 つけだすことはできなかったが、その提案を受けて、国務省はサミットの翌年に流出文化財に関する調査のため、3人の専門家を、国務省主催のインターナショ ナル・ビジター・プログラムで招待したいと連絡してきた。さっそく沖縄県庁の担当者を米国に送り出した結果、中城御殿から持ち出された王冠、皮弁服(ひべ んふく=儀式用の礼服)、肖像画11点を盗難品として、連邦捜査局(FBI)の盗難美術品リストに登録することができた。盗難美術品を見つけ出すのは簡単 ではない。しかし、見つけ出す手だての第1歩を踏み出すことができたことを県民は喜んだ。

戦利品というイメージ

私が米国にある沖縄の文物の調査をしたいと周囲の人たちに話すと、「アメリカには戦利品がたくさんあるから、ぜひ返還してもらいたい」と全員が異 口同音に言った。多くの沖縄の人々は、米国にある沖縄の文物は沖縄戦の時に米兵によって持ち出された戦利品だというイメージを持っている。これは、戦利品 が返還されたという事例がたびたび新聞で紹介されるからであろう。以前には護国寺や大聖禅寺の鐘などの貴重な文化財が、最近では個人のアルバムや手紙など の返還がある。さらに、米兵の戦利品あさりがひどかったことは、戦争中に沖縄で勤務していたドナルド・キーンなどが触れている。その上、上述した中城御殿 から持ち出された文物のほとんどがいまだに行方が分からないのだから、そのようなイメージが醸成されるのも当然といえる。しかし、果たして実態はどうなの か。

沖縄県の調査

写真1 文化財調査報告書

<写真1> 文化財調査報告書

沖縄県は1990年から5年かけて、米国の34施設に収蔵されている沖縄の文物1041点の所在を確かめ、報告書を出した。(写真1)その報告書 で最初に紹介されているのが、沖縄の民俗資料197点を収蔵している、マサチューセッツ州セーラムのピボディ・エセックス博物館である。それを読んだと き、私は調査をした学芸員に電話をして、心急きながら尋ねた。「どうして、あの魔女狩りで有名な清教徒の町に、こんなに多くの沖縄の文物があるの、どうし てなの?」と。

「県はどのような文物がどこにあるかを調査したが、その移動の背景までは調べていない。英語がわかる高安さんが調べたら」との返事であった。沖縄 県はこれらの文物の「プロビナンス」、つまり、これらの文物がいつごろ、誰によって、どうして米国に移動していったのかまでは調査していなかった。私はそ れらの移動の背景に強い関心を持ったが、調べる方法を知らなかった。それで、琉球大学の高良倉吉教授の下で修士論文のテーマとして専門的に研究することに した。

戦利品というイメージと実態のギャップ

私は沖縄県の報告書をもとに、米国の主な博物館・美術館15館を訪問し、訪問がかなわなかった22館からは電子メールや手紙で資料を収集した。そ の結果、37施設に1984点の沖縄の文物が収蔵されていることを確認し、その大部分のプロビナンスを明らかにすることができた。ちなみに、1984点を 分類してみると、陶器569点、 民俗資料501点、染織420点、漆器289点、絵画10点、その他古銭等194点であった。時代区分で見ると、戦前に約400点、戦後から1972年の 日本復帰の間に約1200点、復帰から現在までに約400点をこれらの施設が取得していた。

調査結果は、沖縄の人々が持っている「米国にある沖縄の文物は戦利品」というネガティブなイメージを明らかに否定するものであった。逆に、これら の文物の多くは、沖縄の文化や文明に関心を持ち、その文物の価値を認識した個人コレクターや博物館・美術館が戦前から戦後にかけて沖縄や日本本土で収集し た文物であり、民俗資料として学問的な立場から、あるいは美術品として取得していた。明らかに戦利品だとわかる文物も何点かあった。ただ、戦利品なるもの は、公共の施設に収蔵されるというよりは、むしろ持ち帰った米兵の家の戸棚の奥深くに捨て置かれる運命にあったといえる。

メトロポリタン博物館、アメリカ自然史博物館、ロサンゼルス郡博物館、ホノルル美術館など、個人コレクションも含めて37館の米国の施設には沖縄 コレクションが収蔵されているが、それぞれに異なる心温まるエピソードがその移動の背景にはあった。今回は紙面の関係上、戦前に米国に移動して行った沖縄 の文物の収集に焦点を当てたい。

米国ハーバード大学出身の学者たちが収集!

私の調査で、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースの影響を受けたハーバード大学出身の学者たちが、琉球処分前後に沖縄や日本 本土で沖縄の文物400点近くを収集していたことが明らかになった。モースの影響を受けた学者たちが20世紀初頭までに収集した沖縄の文物は、現在、ピボ ディ・エセックス博物館(252点)をはじめ、ボストン美術館(35点)、ハーバード大学付属サックラー博物館(10点)、ペンシルベニア大学考古学・人 類学博物館(57点)、スミソニアン博物館(25点)に収蔵されている。(写真2)

写真2 モースネットワークの収蔵施設

<写真2> モースネットワークの収蔵施設

モースの沖縄コレクション・ネットワーク

エドワード・モース(写真3)はハーバード大学で学んだ動物学者で、1877年6月にシャミセンガイの研究のため来日し、9月にお雇い教師として東京大学の初代動物学教授に就任した。大森貝塚を発見し、ダーウィンの進化論を日本の知識人に初めて紹介した。

写真3 エドワード・モース

<写真3> エドワード・モース

 

モースは、1877年から1883年にかけて3回来日し、在日中に、現在ボストン美術館に収蔵されている5000点ともいわれる日本の陶器・磁器 を収集した。さらに、3万点ともいわれる日本の明治の民具を収集し、自分が館長を務めるピボディ・エセックス博物館に寄贈した。この3万点の中に沖縄の文 物12点が入っていた。モースが沖縄に来たという記録はないため、これらは本土で収集されたものであろう。

モースは日本から帰国すると、熱心に日本についての講演を大富豪ローエル家で行い、ボストンの知識人に強い影響を与えた。ハーバード大学を卒業し た上流階級の学者たちがそろいもそろってモースの日本熱に感染して、日本美術の研究や収集にのめり込んでいったのだ。これら学者たちは、後に日本美術や東 洋美術に深い造詣を示すようになっただけでなく、美術を通して日米の懸け橋になった人々である。モースのネットワークの中で沖縄の文物の収集に関与したコ レクターをこれから紹介する。

1.ウィリアム・S・ビゲロー(ボストン美術館―琉球漆器)

ウィリアム・ビゲロー(写真4)はボストンきっての大富豪の家に生まれ、1874年にハーバード大学を卒業した。モースを自分の別荘に招いて1カ 月余りを過ごした後、モースと共に来日した。7年間の滞在中に4万点にも上る日本の美術品を収集し、ボストン美術館に寄贈した。この寄贈のおかげで、ボス トン美術館は現在海外における日本美術の一大拠点となっている。

写真4 ウィリアム・ビゲロー

<写真4> ウィリアム・ビゲロー

モースはビゲロー、岡倉天心、フェノロサと共に、日本の隅々まで民俗資料の収集旅行をしている。フェノロサはモースの紹介で1878年に東京大学のお雇い教師として来日し、「日本美術の恩人」とまでいわれるようになった。

ビゲローは日本滞在中に琉球漆器36点を収集した。彼はこれらの漆器を1911年にボストン美術館に寄贈している。これらの漆器は1609年に薩 摩藩が琉球に侵入して以来、琉球から日本に移動していった漆器類が市場に出回ったものと思われる。私は調査中にビゲロー・コレクションの漆器8点を写真撮 影したが、何点かは王家の印が入っていた。

2.手島精一(ピボディ・エセックス博物館―琉球の日用品)

モースは東京大学のお雇い教師として、福沢諭吉をはじめ多くの知識人と知り合いであった。東京教育博物館長の手島精一(写真5)もその1人であ る。モースは明治のありとあらゆる民具を体系的に収集しているが、物によっては収集が十分でないものがあった。特に琉球関係の文物は12点にすぎない。そ れで、手島に文物の収集を依頼した。

写真5 手島精一

<写真5> 手島精一

手島がモースにあてた1886年9月30日付けの手書きの手紙が残っている。それには「時間がかかりましたが、お約束していた添付リストの品々を 貴館に寄贈するためにお送りできますことを嬉しく思います」と書いてある。添付リストには、日本の生活用品と共に、「琉球の人々が使用している日用品」と して沖縄の文物36点が入っていた。

日本国文部省も1887年に米国国立スミソニアン博物館に日本の文物を何十点か寄贈しているが、25点は沖縄の文物であった。これは九鬼隆一駐米 大使とスミソニアン博物館との協議によるが、前年に東京教育博物館の手島からピボディのモースに贈られた文物が引き金になったのではないかと思われる。当 時、ピボディとスミ ソニアンはペリー提督が琉球王国から持ち帰った文物を貸し借りする間柄であった。

3.ランドン・ウォーナー―沖縄で収集(ピボディ・エセックス博物館)

ランドン・ウォーナーはボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年にボストン美術館の研修候補生として日本に派遣された。帰国直前に民俗資料収集のために沖縄に来た。

彼の日誌によると、1909年11月2日に神戸を出発、7日に沖縄の那覇に到着と書いてある。9日付けの日誌には、「ハーバードのピボディ博物館 のために民俗資料を収集するつもりだがもし同博物館が購入できないのであれば、セーラムのピボディ博物館のためにモースにチャンスを与えるつもりだ」と書 いてある。

当時沖縄は遠かった。ウォーナーは那覇から首里に向けて収集の旅をしているが、時間をかけて、丁寧に収集している様子がうかがえる。当時すでに珍 しくなっていた型の織機を使える女性を、わざわざ、ほかの村から連れてきて、その使い方を見せてもらったりしている。(写真6)ウォーナーは日本の民芸を 高く評価していて、柳宗悦をハーバード大学の美術教師に招いているが、文物の収集の意義も深く認識していたようである。

写真6 1909年に撮影された古い型の機織り機

<写真6> 1909年に撮影された古い型の機織り機

ハーバードの博物館は、予算か何かの関係で沖縄の文物をウォーナーから購入できなかった。それで、ウォーナーはモースに手紙を出して沖縄の文物の 説明をした。ところが、困ったことにモースの博物館も予算がなかった。だからといって、ウォーナーには沖縄で収集した文物をそっくり寄贈できるほどの余裕 はなかった。

4.チャールズ・ウェルド―ボストンきっての大富豪

ウォーナーが沖縄で収集した民俗資料134点は、ボストンきっての大富豪であるチャールズ・ウェルドが購入し、モースのピボディ・エセックス博物 館に寄贈した。ウォーナーは気に入った沖縄の染織は売らずに、娘のマーゴに遺した。マーゴは、これらの染織10点をハーバード大学付属サックラー博物館に 寄贈している。

ウェルドの祖父は北大西洋から東インド諸島まで商船隊を組んで交易し、莫大な財産を築き上げた。その祖父の血を継いで、ウェルドは海を愛し、異な る文化や文明に魅せられていた。そして、何よりも、ハーバード大学の後輩であるモースを深く敬愛し、彼の民俗学の仕事や研究のために多くの国々から集めた 文物をモースが館長を務めるピボディに寄贈した。

5.ウォーナー伝説

ランドン・ウォーナーは日本美術の普及に尽力したとして、勲2等瑞宝章を昭和天皇より授与されている。著書に、「推古時代の日本彫刻」や「不滅の日本美術」などがある。米国の日本占領時には、マッカーサー元帥の美術や重要記念物に関する技術顧問も務めた。

第2次世界大戦中、京都、奈良への爆撃をしないよう米国政府に働きかけ、古都の文化財を守った恩人としても知られている人である。この功績が称え られ、彼の顕彰碑が鎌倉や奈良県等に5塔建立されているという。さらに、彼の供養塔が世界文化遺産として登録された法隆寺の西堂前に建立されている。しか し、ウォーナーは京都と奈良を爆撃から救った恩人ではないと結論付けた最近の論文を2つ読んだ。この功績はウォーナー自身も否定していたといわれている。 それにもかかわらず、どうしてウォーナー伝説がここまで広まってしまったのか。ある論文は、ウォーナーが否定しているのは彼が謙虚だからだと日本人は解釈 したのだろうとしているが、もちろんそれだけでなく、ウォーナーは当時、京都・奈良を救おうと思えば救える状況にあった、と日本人が思い込んでも不思議で はない立場にいたことも大きな要因であろう、と付け加えている。

6.ウィリアム・H・ファーネスとヒラム・M・ヒラー(ペンシルベニア大学考古学・人類学博物館)

モースがボストンで精力的に日本に関する講演をしていた時期に、ウィリアム・ファーネスとヒラム・ヒラー(写真7)はハーバード大学で学んでい た。彼らは、裕福で、高学歴で、知識欲と情熱にあふれた若い医者で、開設されたばかりのペンシルベニア大学博物館のために民俗学の資料を収集する目的で、 ボルネオの「首狩り族」を自費で探検すべく、1895年にペンシルベニアを出発した。途中、横浜、奄美、沖縄に立ち寄り、8カ月後にボルネオに到着、4カ 月以上滞在した。現在、同大学考古学・人類学博物館には、彼らが持ち帰った奄美と沖縄の民俗資料57点と3冊の日誌がある。

ファーネスが書いた日誌「琉球諸島」の95ページに興味深い記述があった。「沖縄の男は怠惰で役立たずで、すべての仕事を妻に押し付け、自分は酒 を飲み、三味線で遊んでいる。もちろん壁や道路の補修などの手荒な仕事は男の日雇い労務者がやってはいる。おそらくこのような苦労のない、気楽な生活をし ているからだと思うが、多くの男は、特に若い男は、女と見まがうほどに上品な容ぼうで、優しい目をして、すべすべした肌をしている。これは私たちが髪の結 い方で男か女かの区別ができるようになる前の話であるが、近づいてくる船の上にいる女性を見て、私たちはその美しさに度々感嘆の声を上げた。ところが船が さらに近づいて来ると、勘違いをしていたことに気づく。美女だと思っていた人は実は美男だったのである」

異国人が女性と間違えるほどの男たちの一見怠惰な、でも、優雅な酒と歌と踊りの日々が、現在の琉球文化や芸能を生み出したとはいえないか。そして その背景には、ウナイガミ(姉妹の神、姉妹は男兄弟の守護神になると信じられている)信仰の素地になったと思われる、男や身内のために働くことを潔いとす る女の存在があったと思われる。

モースのネットワークの広がりの背景

ではどうして、ハーバード大学出身の多くの学者が、モースの影響を受けて、日本美術に深く傾倒していったのか。まず、モースの学者として、そして 人間としての魅力が大きかったと思われる。2番目に、セーラムは古くから貿易港として栄えた町である。大航海時代には地球の隅々から「天然と人工の珍しい 品々」が集まり、それが異なる文化や文明に関する関心を育んでいた。

 写真7 ヒラー(写真左)とファーネス(写真右から2番目)

<写真7> ヒラー(写真左)とファーネス(写真右から2番目)

3番目に、当時は、持てる者が自分の知と富を社会に還元することは至極当然なことだった。当時、一般市民のために多くの博物館が開設さ れたが、収蔵品はエリート層の個人からの寄贈や協力で充実が図られていた。

4番目に、日本は、文明開化や欧米化で古い文化や文明が消滅していく最中にあった。当時は「種の起源」という思想や歴史観が浸透した時代であり、淘汰(とうた)されていく文物や美術品の収集と保存に意義を見出していた。

5番目に、当時、米国は拝金・俗物主義の「金ぴか時代」と評され、精神性への問いかけが産業化と表裏一体となって表れた時代である。特に東部の知 識人の中には、日本の精神性に強く引かれた者も多く、文物や美術品を通して日本の精神性を理解しようとした。そして、最後に、琉球では王国が崩壊し、日本 の県のひとつになった画期的な時期であった。この歴史的な事件によって淘汰されていく琉球王国の文化や文明の証として、民俗資料が収集された。

モースという1人の学者の民俗学に対する情熱と、1870年代前後の米国と日本と沖縄の社会背景が重なり合って、ハーバード大学出身の学者たちが琉球王国の崩壊という歴史の節目に収集した沖縄の民俗資料や美術品が、現在米国の施設で大事に保管されている。

photo takamura
高安 藤
在沖米国総領事館広報・文化担当補佐官。1984年に領事部永住ビザ・年金担当として同総領事館での勤務を始めた後、1999年より現職。2005年には琉球大学大学院で歴史学修士号を取得。