エレノア・ルーズベルトは裕福な家庭に生まれ育ったが、その出自の枠を超え、米国の経済的に恵まれない人たちの熱心な擁護者として活動した。そして夫のフランクリン・D・ルーズベルト大統領の死後、国連人権委員会の委員長を務めた。

エレノア・ルーズベルトは、その生涯において数多くの役割を果たしたが、彼女自身は国連人権委員会での役割を最も重要な仕事と考えていた。

エレノア・ルーズベルト(© AP Images)

エレノア・ルーズベルト(© AP Images)

生粋のニューヨーカーであるエレノアは、1884年に社会奉仕活動を重んじる名家に生まれたが、10歳になる前に両親を亡くし、親せきによって育てられた。

社交界の生活に息苦しさを感じた彼女は、ニューヨーク市のマンハッタンにあるセツルメント・ハウス(隣保館、貧困層の労働者や子弟の教育・救済施 設)で「美容体操とファンシーダンス」を教えるようになった。セツルメント・ハウスは、都会の貧困者を助ける支援者が、貧困者たちと生活を共にしながら彼 らと直接協力するという新しい形態の社会変革事業であった。1905年に彼女は、遠いいとこで、政界で人気が高まりつつあったフランクリン・デラノ・ルー ズベルトと結婚した。夫婦は子供を6人もうけた。

第1次世界大戦が始まるとエレノアはボランティア活動を再開し、負傷兵を慰問したり赤十字の運営する食堂で働いた。後に彼女は「自分が役に立つと感じることは、おそらく私が経験した最大の喜びだったと思います」と語っている。

1920年にフランクリンはポリオにかかった。車椅子の生活を余儀なくされるほどの病で、一時は彼の政治生命も終わるかのように見えた。エレノア は、ボランティア活動を大切に思う気持ちと、夫が政治生命を維持できるように助けることの間で板ばさみになった。彼女は女性労働組合連盟と全米消費者連盟 のために発言し、働いた。女性有権者連盟の立法問題担当部門で働き、定期的に連邦議会議事録を読んだ。しかし一方で、夫を看護し彼の健康回復に努めた。フ ランクリンは政治活動を再開し、1928年に、当時、全米で最も人口が多く、政治的に重要とされたニューヨーク州知事に当選した。そして、大恐慌のピーク であった1932年に、米国大統領に選ばれたのである。

米国憲法は、「ファーストレディー」の役割を規定していない。過去の大統領夫人の多くは、儀礼的な役割を演じただけであった。しかしエレノア・ ルーズベルトは速やかに、信頼できる政策アドバイザーとしての役割を自らつくり上げた。彼女は女性、貧困層、少数民族グループの権利を擁護した。フランク リンの目となり耳となって国内を旅し、特に南部の人種差別について、見聞きしたことを報告した。彼女は、自分の見聞をもとに、しばしば大統領に政策変更を 促すことがあった。大統領史の専門家ドリス・カーンズ・グッドウィンは、エレノアについて次のように記述している。「自分の主張を裏付けるために統計デー タを使い、夫がくつろぎたいと思ってカクテルを飲む時にも押しかけ、夕食中に厳しく詰問し、夜遅くに目を通すようにとメモを手渡すなど、時を選ばず夫の時 間に割り込んだ」。そうした彼女の努力は効を奏した。フランクリン・ルーズベルトは、政府の経済救済プロジェクトの運営での人種差別を禁止する一連の大統 領令に署名したのだ。

ニューヨークの食糧配給所で働くエレノア(© AP Images)

ニューヨークの食糧配給所で働くエレノア(© AP Images)

第2次世界大戦中にエレノア・ルーズベルトは、米国兵士の士気を高め、同盟国との強力な関係を維持するために、英国と南太平洋地域を訪問した。 1945年4月の夫の死去に伴い、エレノアはホワイトハウスを去ったが、その活動はその後も継続した。同年、新大統領のハリー・S・トルーマンはエレノア を「世界のファーストレディー」と呼び、米国の国連代表団の一員に任命した。

エレノアは、市民の自由、女性の地位、情報の自由、差別防止、少数民族の保護に関する提案、勧告、および報告を提出する役割を担う国連人権委員会の委員長を務めた。しかし、同委員会の最優先課題は、国際的な権利章典の策定であった。

策定作業は困難を極めた。国際的な場で、哲学的議論を政治プロセスに結び付けることは、危険を伴うことであった。誰もが文書の中立性を尊重する一 方で、人権に対する個々の考え方を明確に主張した。しかし、エレノアはそのような状況に臆する性格ではなかった。「私たちの歴史を私たち自身の手でつくる のです」と彼女は言った。「希望を持つ方が希望を持たないよりも、試みる方が試みないよりも、より知的と言えます。できないと言っていては、何事も達成で きません」

人権侵害の例を詳しく伝え、助けを求める手紙が、世界中から委員会あて、特にエレノアあてに殺到した。そのために、委員会の任務はいっそう急を要 するものとなった。エレノアは過密スケジュールで委員会を運営し、作業は夜遅くまで続けられることもあった。代表団は、彼女が一生懸命に仕事をしながら、 他人も自分と同じ努力を払うことを期待しているのを理解していた。

1947年12月、人権委員会は人権宣言の草稿の最終チェックを行った。しかし、その草稿を(社会的、人道的、文化的問題を扱う)国連第3委員会 で通すことは難しかった。「私たちは、2カ月にわたり、人権宣言の草稿の文言を一言一句、何度も審議しました。その作業は夜遅くまで続くことも多々ありま した。そして、やっと第3委員会が総会提出を承認したのです」と、エレノアは回顧録に記している。

1948年12月、国連年次総会の閉会があと1週間に迫ったころになっても、まだ各国代表団は草稿をめぐって激論を交わし、修正を行っていた。 12月9日、ついにエレノア・ルーズベルトは国連総会で演説し、「私たちは本日、国連と人類の歴史における重大な出来事の出発点に立っています」と述べ た。そして、12月10日午前零時まであとわずか4分の時点で、オーストラリアのハーブ・エバット総会議長が投票を求めた。結果は、賛成48カ国、反対ゼ ロ、棄権8カ国(2カ国は欠席で、投票も棄権もせず)であった。そして世界人権宣言が採択された。エレノア・ルーズベルトは国連総会で総立ちの喝采(かっ さい)を浴びた。

エレノア・ルーズベルトは、1951年に国連を去った後も、1962年に亡くなるまで執筆や講演活動を行いながら、民主党の政策に積極的に関与し続けた。

* 本稿で述べられた意見は、必ずしも米国政府の見解あるいは政策を反映するものではありません。