この9月でアメリカ同時多発テロの発生から20年を迎えます。全世界に衝撃を与えたこの事件では、多くの人命が失われ、その中には現地で救助活動にあたった多数の消防士も含まれます。ニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)では、消防士343名が犠牲となりました。

その現場「グラウンド・ゼロ」に駆け付け、救助活動に参加した11名の日本人消防士がいたことをご存じでしょうか。当時の現場は非常警戒区域に指定され、外国人の立ち入りは不可能でした。そのような状況で、なぜ彼らは3泊という短い日程でも現地に向かうことを決めたのでしょうか。そして、何を成し遂げたのでしょうか。アメリカン・ビューでは、11名の中で最年長であり、グループのリーダーでもあった濱弘一さん(元東京消防庁勤務)に当時のお話を伺いました。

アメリカン・ビュー:どのような経緯で、現地行きが決まったのでしょうか。

濱 弘一:きっかけは、ニューヨークの消防士仲間からの1本のメールです。私は日本各地の消防士たちと、警察官や消防士のスポーツ大会である世界警察消防競技大会に何度か参加したことがあります。テロ発生の3カ月ほど前にもインディアナポリスで行われた大会に参加しており、そこでニューヨークの消防士たちと意気投合し親交を深めました。テロのニュースを目にし、すぐに私を含めた消防士たちが彼らに連絡を取り、安否を確認しようとしましたが、電話も通じず、メールへの返信もありません。

テロ発生から約10日後に、ニューヨーク市消防局のデービッド・ロドリゲスから我々の仲間にメールが届きました。自身の無事を知らせるとともに、現地でのヘルプを求めるものでした。これを見た横浜市消防局の仲間から、現地へ行きたいとの声が上がったのです。彼らからは何度も誘いを受けましたが、とても海外に出られる状況ではありませんでした。

横浜の消防士たちの気持ちは痛いほど分かりました。消防士仲間が被害にあっているのではという心配はもちろん私にもありました。ニューヨーク方面へのフライトが9月後半からほぼ平常通りの運航を再開したことで、彼らの話も現実的になってきました。最終的には皆のはやる気持ちを抑えてチームとしての成果を出すには、年長の私がまとめ役として参加するほうがいいのではと考えたのです。

アメリカン・ビュー:出発前にはどのようなプランを立てていたのでしょうか。

:我々の渡航は業務ではなくボランティアでした。各自が休みを取り、自費で現地へ向かいました。仕事の性質上、長期の休みを取ることが難しいことに加え、国内でのテロ発生を警戒し、各地の消防署でも特別警戒態勢にありました。このような状況下でも手を挙げてくれた総勢11人で現地を目指すことになりました。その多くは世界警察消防競技大会に一緒に出場し、気心が知れた仲間たちです。

日程は、2001年10月7日に成田空港発、10日にニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から帰国というものでした。現地3泊ですが、動けるのは正味2日です。この短い時間で何が出来るかを考えながらの移動となりました。現場で救助活動に携わりたいという気持ちはもちろんありましたが、いきなりの訪問では難しいとも感じていました。最終的には、消防仲間から集めた義援金を先方に渡し、犠牲となった方々のご冥福をお祈りするだけでも構わないと思いました。それで、3泊5日という短い日程でも現地に向かうことにしたのです。

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アメリカン・ビュー:現地到着後にすぐに救助活動を開始できたのでしょうか。

:空港に着いて知らされたのは、ニューヨーク市消防局の友人を通して打診していたIDの取得が困難だということです。

現場での作業の可能性を探りながら、翌日はミッドタウンにある「エンジン16・ラダー7」に向かい、犠牲となった消防士のために花束を供えて黙とうを捧げました。また、副署長に義援金を手渡しました。そして、先月メールをくれたニューヨーク市消防局のデービッド・ロドリゲスと再会できたのです。

ここで一つの出会いがありました。消防士の一人が我々の話を聞きつけ、声をかけてきたのです。ミッキー・クロス、WTCでの救助活動中にビルが崩壊し、4時間後に奇跡的に救出された消防士です。現地ではちょっとしたヒーローでした。その彼が、我々をグラウンド・ゼロに連れていってくれるというのです。願ってもない話です。

グラウンド・ゼロの惨状は予想をはるかに超えていました。仲間の何人かは唖然として、その場に立ちつくしてしまいました。現場のテントには祭壇が設けられており、犠牲となった消防士たちの写真や遺品の前で手を合わせ、彼らの冥福を祈りました。現場作業についての交渉は、この日もまとまらずに終わりました。

アメリカン・ビュー:そして最終日。救助活動参加の交渉はうまくいったのでしょうか。

:まず午前中は、消防士仲間が犠牲となった「ラダー3」の葬儀に参列しました。そして、何かできることがないかと、消防装備を積んだ車でグラウンド・ゼロ付近まで来たのです。現場に入れたのは奇跡でした。現地でデービッド・ロドリゲスが消防署付きの牧師に我々のことを熱心に説明し、その牧師がシフト責任者に話をつけてくれたのです。我々に許可された救助活動は17時から21時まででした。

今思えば、防火衣やヘルメットを持参していることで、こちらのやる気が伝わったのではないかと思います。シフト責任者が、一緒にやろうと声をかけてくれました。また、写真撮影は禁止でしたが、それも特別に許可されました。

現場では、持ち物の破片でも何でもいいから見つけてくれと言われました。WTCの下には地下鉄の駅があり、倒壊した建物の残骸がまだ燃えているため、熱が鉄骨を伝わってきます。それを水で冷やしながら、手探りでがれきの中を探しました。曲がった鉄骨が折り重なり所々空洞が出来ているため、重機を使うと崩れてしまう可能性があるのです。一般の方々だけでなく、できれば消防士仲間も見つけてあげたいという気持ちで慎重に作業を行いました。

時間切れ直前に、現地の消防士が使ったと思われる空の空気ボンベを発見しました。遺体発見までには至りませんでしたが、消防士がそこにいたという可能性を示すものです。極度の緊張の中での作業でしたが、リーダーとして仲間の消防士の安全管理にも気を配りました。時間はあっという間に過ぎてしまいました。

アメリカン・ビュー:作業を終えて感じたことをお聞かせください。また、新たな発見などはありましたか。

:まず、仲間は決して見捨てないというアメリカ人消防士の強い結束を感じました。我々もその気持ちに応え、夢中で作業を行いました。最終的には現場責任者の裁量で救助活動に加わることができたのですが、何かしたい、出来ることは何でもする、という我々の気持ちが言葉の壁を越えて相手に伝わり、グラウンド・ゼロへ導かれたのかもしれません。

こういった状況下でも、現地の皆さんは本当に親切でした。現場近くのビル内には作業をしている消防士やボランティアのための食堂があり、無料で食事が提供されていました。また、少し離れたところでは、アメリカのメーカーが無料で防塵マスクなどの装備を提供しており、奉仕の精神が社会に根付いていることを感じました。

我々が現地で活動できた一方で、日本からの国際緊急救助隊は派遣されませんでした。行きたくても行けない人たちがいたのです。ですから、一部の報道で自分たちが消防士の代表のような扱いになってしまったのは心残りです。あくまでも有志のボランティアだったのです。ヒーロー扱いは我々が求めることではありません。

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アメリカン・ビュー:この経験はその後どのように生かされているのでしょうか。また、あの日から20年が経ちますが、現在の思いをお聞かせください。

:同じ職業意識を共有している者同士は、国境や人種、言葉の壁を越えて力を合わせることができます。消防職員と分かった時点で打ち解けられるのです。若い消防士はその素晴らしさを学んだと思います。

その後も若手を引き連れてニューヨーク市消防局の消防署を何度か訪れており、公私にわたり交流が続いています。テロ発生の翌年には、アメリカ大使館からの要請を受け、東京消防庁の赤坂消防署が大使館で防火訓練を実施しました。私も現地で指揮を執りました。

あれから20年が経ってもテロがなくならないのは残念なことです。消防署は定年退職しましたが、アメリカから要請があればいつでも駆けつける用意ができています。それは、当時の仲間たちも同じだと思います。気持ちは一つです。

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* 11名の消防士と当時の所属先は以下の通り。
濱  弘一(はま こういち)   東京消防庁
武藤 勝行(むとう かつゆき)  堺市消防局
志澤 公一(しざわ こういち)  横浜市消防局
大江 道就(おおえ みちなり)  横浜市消防局
斎藤 禎史(さいとう よしふみ) 横浜市消防局
牧野  暁(まきの さとる)   横浜市消防局
小玉 敦司(こだま あつし)   川崎市消防局
山本 大介(やまもと だいすけ) 川口市消防局
山東 雅克(さんとう まさかつ) 大阪市消防局
小濱 直之(こはま なおゆき)  大阪市消防局
水野 晴夫(みずの はるお)   名古屋市消防局

バナーイメージ:ニューヨーク市の消防署「エンジン16・ラダー7」を訪れて義援金を手渡す日本の消防士たち