9月最後の雨の土曜日、山梨ベーコンフェスティバル2018を目指し、何千人もの人たちが山梨県甲府駅近くの広場に押し寄せました。世界で最もシンプルなのに、最高においしくてほっとする食べ物の1つ「ベーコン」のお祭りです。

2日間のお祭りに笑いを添える楽しいコンテストも行われました。ベーコンクイーンコンテストの女性参加者は、豚バラ肉への深い愛情をアピールし、ベーコンイーティングコンテストでは、山盛りのベーコンを食べる速さを競いました。

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しかしそれぞれの日を通して、訪れた大勢の人たちの一番の楽しみは、アメリカ風のカリカリベーコンや、日本のジューシーなベーコンを味わうことでした。さまざまなベーコン料理 ― 網焼きやフライに加え、サンドイッチ、パエリヤやスープの具、ピザのトッピングにも使われました ― が、広場に並んだ約30店のテントで販売されました。そこではテントの屋根を打つ雨音が、肉を調理するジュージューという音と重なりました。

カリカリに焼いたベーコンを来場者にふるまうボランティアチーム

甲府市で開催される山梨ベーコンフェスティバルは2年目を迎えましたが、きっかけは山梨県の姉妹州の1つ、アイオワ州でのささやかな出来事でした。ある若者のグループが2001年の週末に、ベーコンを次々とフライパンで炒めながら、そのおいしさに驚嘆したのが始まりです。

その熱烈なベーコン好きな若者たちの1人マーシャル・ポーター氏によると、ベーコン作りの秘訣は「丸ごと味を馴染ませること」です。「普通アメリカのベーコン作りでは、ブラウンシュガーやメイプルシロップのような甘みを出すものに漬け込みます。その甘みが豚バラ肉を保存する際に違いを生み出します。そのため砂糖は欠かせません。また我々はさらに豚バラ肉をスモークします。そうすることで、ベーコンを調理するときの熱で脂肪が砂糖を溶かしてカラメル状になり、砂糖の風味を引き出します。あのカリカリ感は砂糖から生まれるのです」

ベーコンを主な食材にしたこの週末の習慣を何年も続けた後、ポーター氏とその友人たちは2008年、彼らの大好きなベーコンに敬意を表し、アイオワの州都デモインで最初のブルーリボンベーコンフェスティバルを開催しました。ポーター氏はグループの中で、「最高ベーコン責任者(chief bacon officer)」の称号を授けられています。

8人の男性が始めた湖畔の家でのベーコンパーティは、さぞにぎやかだったことでしょう。現在デモインのフェスティバルはコンベンションセンターで開催され、プロレス風のショー、機械式の雄牛を使ったロデオ、レーザータグ(レーザーガンを使ってポイントを競うゲーム)、DJダンスパーティーなどのイベント行われます。数多くのレストランが料理を提供し、大量のビールが用意され、1万5000人以上が来場します。

ベーコンイーティングコンテストの優勝者ケビン・グレアム。アイオワ州デモインで行われた2015年ブルーリボンベーコンフェスティバルにて

「ちょっとした羽目外し ― それがアメリカのベーコンフェスティバルです。会場の至るところで信じられないようなことが起きる、大人向けのクレージーなイベントなのです」とポーター氏は話します。

アイオワ州ベーコンフェスティバル実行委員会は、彼らが呼ぶところの「ベーコン親交」を他の市にも広げようと考え、コロラド州キーストーン市とアイスランドの首都レイキャビックと関係を結びました。その3年後、甲府青年会議所のメンバーがアイオワ州での青年専門家交流に参加した後、アジアで最初のベーコンフェスティバルを開催しようと考え始めました。アイオワ州のフェスティバルで山梨のワインや特産品を屋台で提供した後、アイオワ州ベーコンフェスティバル実行委員会の支援を得て、青年会議所のメンバーは最初の山梨ベーコンフェスティバルを2017年に開催しました。

山梨県とアイオワ州の関係は、甲府市とデモイン市が姉妹都市提携した1958年にさかのぼります。その翌年、2つの台風が山梨県を襲い、死者・行方不明者は計100人を超え、約1700戸の家屋が全壊し、学校や道路に被害をもたらしました。特に農業は大きな被害を受けました。

当時日本に駐留していたアイオワ州出身のリチャード・トーマス米空軍一等軍曹は、山梨県の復興支援のため、種豚36頭(途中で1頭が死亡)と10万ブッシェル(約1500トン)の飼料用トウモロコシの空輸を軍用機で手配しました。贈られた種豚は日本の豚と交配されて、山梨県の養豚業復興に一役買いました。60年後の現在、アメリカから送られた種豚をルーツとする山梨県産の豚肉は、甲州富士桜ポークのブランド名で販売されています。

1960年、山梨はアメリカの州と姉妹提携を結んだ日本最初の県になりました。当時の天野久・山梨県知事は1962年、「平和と友情の鐘」と鐘をつるす鐘楼を寄贈しました。鐘楼はアイオワ州議会議事堂の前に建てられました。

それ以来、農業・経済・教育部門での交流が行われてきました。アイオワ州姉妹州委員会のキャシー・ウィーラー国際プログラム部長によると、数人の学生が山梨県から奨学金を得て、毎年アイオワ州の大学で学びます。また地元の家庭にホームステイしながら、現地企業で従業員に密着し、職場での仕事を観察するジョブシャドウイングという職業訓練プログラムに参加する学生もいます。また高校生によるアイオワ州への短期訪問も実施されています。

困難なときに親身になって支援するのは、この姉妹関係の一部として続いています。アメリカ中西部の州が何度か激しい洪水に見舞われた1993年、山梨県はアイオワ州の復興支援に30万ドルの義援金を送りました。

現在では、甲府青年会議所のメンバーがアイオワ州を訪問するときは、地元の家にホームステイします。アメリカ代表団が山梨県を訪れるときも同様です。「我々にとって第二の家族のようなものです。視野が広がり、人脈も築けます」。山梨ベーコンフェスティバル実行委員会委員長の齊藤和弘・甲府青年会議所副理事長はこう語ります。

齊藤委員長は、今年の山梨ベーコンフェスティバルの来場者を2日間でおよそ2万5000人と見ています。台風の接近に備えてテントを畳まなければならず、フェスティバルは早めに終了しましたが、日曜日の好天に救われたのかもしれません。

2月にデモインフェアーを訪れる計画だという齊藤委員長は、「継続していくことが最大の課題」と述べています。実行委員会は来年3度目の山梨ベーコンフェスティバルを計画中です。

2010年代初めの数年間、アメリカではベーコンがブームになりました。インターネットで取り上げられ、Tシャツのデザインになり、有名なコメディアンの定番ジョークとして使われました。さらには、ベーコン風味のチューインガムやアイスクリーム、ついにはリップスティックまで登場しました。ポーター氏は、「一時のブームは去ったかもしれませんが、ベーコンは生活に浸透しています。国際ベーコン委員会は世界中の食通に向けて、今まで通りベーコン親交を続けていきます」と語ります。

最後にポーター氏は、こう話してくれました。「ベーコン熱はやや静まりましたが、誰もがベーコン好きなことに変わりはありません」