特異な経歴を持つバラク・オバマが米国大統領に選出されたことで、米国政治の新たな1章が開かれた。

米国史上初のアフリカ系米国人の大統領となったオバマ大統領の半生は、過去のどの米国指導者とも異なっている。ケニア人の父と米国のハートランド (保守的な地域)出身の白人の母という異なる人種の両親を持つオバマは、2004年の民主党全国大会で行った基調演説が好評を博して、一躍全米にその名を 知られるようになり、同年イリノイ州から連邦上院議員に選出された。それからわずか4年後、多くの有力候補を抑えて民主党大統領候補に指名され、さらに本 選で共和党候補ジョン・マケイン上院議員を破って、米国大統領に当選した。

洗練された語り口と聴衆に強く訴えかける高揚感のある話術、そして若い有権者を熱狂させる能力を兼ね備えたオバマは、選挙運動の手段としてイン ターネットを巧みに活用するなど、まさに21世紀型の候補者だった。そして、ワシントンの伝統的な国家の運営手法を変えること、そして多様な思想的・社会 的・人種的背景を持つ米国民を共通の利益のために団結させることという2点を、選挙戦の包括的なテーマとして重視した。

オバマは、2004年の民主党全国大会での演説で、「リベラルなアメリカも保守的なアメリカもありません。あるのはアメリカ合衆国だけです。黒人 のアメリカも白人のアメリカもラテン系のアメリカもアジア系のアメリカもありません。あるのはアメリカ合衆国だけです。(中略)われわれはひとつの国民で あり、誰もが星条旗に忠誠を誓い、誰もがアメリカ合衆国を守っているのです」と述べた。

青少年期

左から、母アン・ダナムに抱かれた幼いころのオバマ氏(1963年ころ)、インドネシアで母、継父のロロ・ソエトロ、異父妹のマヤと(オバマ氏9歳)、ケニア人の父バラク・オバマ・シニアと(オバマ氏10歳)

オバマの両親は、それぞれ大きく異なる環境で育った。母アン・ダナムは、カンザス州の小さな町で生まれ育った。家族と共にハワイ諸島に引っ越した 後、ハワイ大学に留学していたケニア人奨学生バラク・オバマ・シニアと出会った。2人は1959年に結婚し、1961年8月4日、ホノルルでバラク・オバ マ・ジュニアが生まれた。その2年後、オバマ・シニアは家族をハワイに残してハーバード大学大学院で学び、その後ケニアに帰国して政府のエコノミストと なった。オバマ少年が父親と再会したのは、10歳のとき、ただ1度だけであった。

オバマが6歳のとき、母親がインドネシア人の石油会社重役と再婚した。一家はインドネシアに移住し、オバマは4年間、首都ジャカルタの学校で学んだ。その後彼はハワイに戻り、母方の祖父母のもとで高校に通った。

左から、ハワイの高校では2軍バスケット・チームに所属(写真中央、1977年)、祖父スタンレー・アーマー・ダナム、祖母マデリン・ペインと共に高校卒業を祝う(1979年)、ニューヨークのコロンビア大学在学中のオバマ氏(1983年ころ)

オバマは、初めての著書「Dreams from My Father(邦題:マイ・ドリーム)」で、人生のこの時期について、当時米国ではまだ比較的珍しかった、異人種間の血を引いていることの意味を理解でき ずに悩み、思春期の不安を普通の青年以上に抱えていた、と書いている。何年も後に、彼は、さまざまな考え方を理解する広い視野を政治に取り入れたが、黒人 文化と白人文化の両方に根差していることが、こうした視野の形成に役立ったのかもしれない。

法科大学院でオバマの同級生だったカサンドラ・バッツは、ニューヨーカー誌のライターであるラリサ・マクファーカーにこう語っている。「バラクに は、一見矛盾する複数の事実を統合して、首尾一貫したものにする驚異的な能力がありました。その原点は、家庭では白人に養育される一方で、外の世界に出れ ば黒人として見られる、というところにあったのでしょう」

オバマは、ハワイを離れて、ロサンゼルスのオクシデンタル・カレッジに2年間通った。後にニューヨークに移り、1983年にコロンビア大学で学士 号を取得した。2008年に行った演説で、彼は当時の自分の思考を振り返り、「(前略)大学を卒業するころには、変革をもたらすために草の根レベルで活動 するという、常軌を逸した考えに取りつかれていました」と語っている。

社会奉仕への使命感

自己のアイデンティティーと人生の目的を模索していたオバマは、1985年にニューヨークの国際コンサルティング会社の金融ライターという仕事を 辞めてシカゴへ移り、サウスサイドの地元教会グループの地域社会活動家として働いた。サウスサイドは、アフリカ系米国人の住む貧困地域で、製造業の中心地 からサービス業を基盤とする経済への移行によって大きな打撃を受けていた。

左から、マサチューセッツ州ボストンのハーバード大学法科大学院にて(1991年ころ)、シカゴで有権者登録活動に参加(1992年ころ)、1992年10月18日ミシェル夫人と結婚

オバマは、何年も後に、大統領選への立候補表明演説で、「これまでの人生で最も役立つことを学び、キリスト教を信仰することの真の意義を知ったのは、ここサウスサイドです」と語っている。

彼は、経済再開発、職業訓練、環境浄化活動などの問題で住民に発言権を与え、この仕事で目に見える成果を上げた。しかし、地域社会活動家としての 自らの一義的な役割は、政治的・経済的な権利拡大に向けて地域固有の戦略を構築するボトムアップの活動で、一般市民の動員を促すことである、と考えてい た。

そうした活動を3年間続けた後、オバマは、そのように困窮した地域社会を真に改善するには、より高いレベルで法律と政治の分野に関与する必要があ る、との結論に達した。そこで、ハーバード大学法科大学院に入学した。同大学院では、黒人として初めて、権威あるハーバード・ロー・レビュー誌の編集長に 選ばれたこと、また1991年に優等で卒業したことで有名になった。

左から、シカゴ大学法科大学院で憲法学を教える(1993年ころ)、著書「Dreams from My Father」(1995年) - 1996年、シカゴ選出のイリノイ州上院議員に初当選。以来3回再選を果たした、2000年、連邦下院議員選挙で敗れ、家族と共に敗北宣言をするオバマ・イリノイ州上院議員

これだけの実績があれば、「オバマはどのような道にでも進むことができた」と、大統領選でオバマ陣営の選挙参謀を務めたデービッド・アクセルロッ ドは言う。オバマは、第2のふるさととなったシカゴに戻り、公民権法専門の弁護士として開業するとともに、シカゴ大学で憲法学を教えた。そして1992年 に、同じくハーバード大学法科大学院を卒業したミシェル・ロビンソンと結婚し、ビル・クリントンをはじめとする民主党候補を応援するため、シカゴで有権者 登録運動に従事した。

オバマは、社会に奉仕したいという強い気持ちを持ち続け、1996年に初めて公職に立候補することを決意し、シカゴからイリノイ州上院議員に選出 された。この選挙は、いろいろな意味で、彼の地域社会活動家としての活動が発展したものであり、当然の流れであった。彼は、市民主導の草の根活動の推進 者、そして広い支持基盤を持つ連合組織の構築者である政治家として、政治に対するビジョンにもそれまでと同じ幅広いものの見方を取り入れた。

当時オバマは、「白人、ラテン系、アジア系などすべての労働者に経済的な不安をもたらしている、より大きな経済的な力に対処せずに、人種差別だけ を成功への障壁だとするアフリカ系米国人は、大きな考え違いをしている」と語った。それから8年間の州上院議員時代に、選挙資金制度改革、貧しい労働者の ための減税、州の刑事司法制度の改善などの法律制定を成し遂げた。

全米デビュー

2000年に、オバマは初めて米国連邦議会選挙に出馬した。そしてシカゴ選出の現役民主党議員ボビー・ラッシュと下院の議席を争って敗れた。予備 選挙でラッシュに大敗したことに落胆したオバマは、イリノイ州議会議員より大きな影響力を求め、政治家としての階段を上る最後の賭けとして、「成功しなければ辞める」覚悟で連邦上院議員に立候補する決心をし、妻ミシェルを説得した。

左から、2004年7月、連邦上院議員に立候補、2004年7月27日、連邦上院議員候補にすぎなかったにもかかわらず、民主党全国大会で基調演説を行う、2004年の選挙日当日のオバマ氏とミシェル夫人、娘のサーシャ(写真手前)とマリア

2004年のイリノイ州の連邦上院議員選挙は、前年に現役の共和党上院議員ピーター・フィッツジェラルドが再出馬断念を発表していたため、混戦と なっていた。民主党7人、共和党8人の候補が、各党の予備選挙で上院議員候補の指名を争ったが、オバマは、他の6人の民主党候補の合計を上回る得票数 (53%)で楽勝し、民主党の指名を獲得した。

当時、連邦上院では、共和党が100議席中51議席を占め、かろうじて多数党となっていたが、民主党は11月の議会選挙で上院多数党の地位を回復 するチャンスを高めるためには、イリノイ州の選挙が極めて重要であると見ていた(実際には、民主党が多数党となったのは2006年であった)。民主党全国 大会でオバマに重要な役割を与えることで、彼の選挙運動を後押ししたいという思惑があったこと、オバマの演説の才能がよく知られていたこと、そしてオバマ がすでに民主党大統領候補ジョン・ケリーに大変良い印象を与えていたことから、オバマは民主党大統領候補指名の党大会で、基調演説を行うという役割を与え られた。

高揚感のある洗練された言葉で、党派的な対立を超越する必要性を説き、不信感に基づく政治ではなく「希望に満ちた政治」を求めたオバマの演説の効 果は、党大会の参加者を奮起させるにとどまらなかった。この演説によって、オバマは民主党の新星として一躍全米メディアのスポットライトを浴びることに なったのである。同年秋の上院議員選挙で、彼は一般投票の70%を獲得して圧倒的な勝利を収めた。その年イリノイ州の共和党がほぼ全面的な混乱状態にあっ たことも、確かにオバマ大勝の一因だったが、彼が同州102郡中93郡を制し、2対1を超える比率で白人票を獲得したこと自体、目覚ましい出来事であっ た。

左から、当時上院外交委員長を務めていたバイデン上院議員と、著書「The Audacity of Hope」(2006年)、1998年の在ケニア米国大使館爆破事件の慰霊碑に花を手向けるオバマ一家(2006年8月)、家族と共に大統領選出馬を宣言するオバマ氏(2007年2月)

オバマは、従来の人種的対立を克服することのできる新しいタイプの政治家として、着実に評価を高めていった。ライターのウィリアム・フィネガン は、ニューヨーカー誌に掲載されたオバマの紹介記事で、「話をしている相手の話し方にさりげなく合わせる」彼の才能を指摘し、オバマは「米国人が使うあら ゆる言葉遣いで話すことができる」と書いた。オバマ自身は、自分が白人有権者と気持ちを通じさせることができる理由について、次のように説明している。

「私には白人のことがよく分かっています。祖父母が白人なのですから。(中略)彼らの習慣、感性、善悪の判断などは、私には非常になじみ深いものです」

投票記録によると、オバマは上院で、民主党リベラル派の方針に沿った投票を行った。彼のトレードマークのひとつとなっているイラク戦争を批判する 姿勢は、開戦前の2002年に行った演説にまでさかのぼる。その演説でオバマは、そのような軍事行動は、「信条ではなく政略」に基づくものとなる、と警告 した。また、連邦議会の倫理規範の強化、退役軍人援助の向上、および再生可能燃料の利用拡大にも努めた。

大統領選出馬

選挙戦が長期にわたり、50州で行われた予備選または党員集会がすべて意義を持った、2008年大統領選挙の民主党予備選は、いくつかの点で歴史 的なものとなった。アフリカ系米国人や女性が立候補したことは以前にもあったが、今回は、2人の最有力候補が女性とアフリカ系米国人であった。2007年 にバラク・オバマと他の7人の候補が、民主党大統領候補の指名を目指して選挙運動を始めた当時は、どの世論調査でも、ニューヨーク州選出上院議員ヒラ リー・クリントンが最有力であり、オバマ候補は第2位となっていた。しかしながらオバマは、この選挙戦の初期に、特に若者の間で熱烈な支持者を得ることに 成功し、全国的な草の根運動組織をつくるとともに、インターネットによる資金集めを行った。

ひだりから、ほかの6人の民主党大統領候補とテレビ討論会に参加したオバマ氏(写真右から3人目、2007年11月)、アイオワ州の小さな町ペオスタで選挙運動をするオバマ氏、2008年1月3日のアイオワ州党員集会ではオバマ氏が勝利した、最大のライバル、ヒラリー・クリントン上院議員との討論会に臨む

クリントンはオバマより知名度が高く、その選対組織は問題なく機能し、州レベルで民主党指導層の支持を得ていたが、オバマ陣営は、クリントンのこ うした利点を相殺する革新的な戦略として、代議員の選出を予備選ではなく党員集会で行う州に的を絞るとともに、従来は一般選挙で共和党に票を投じてきた小 さい州に焦点を当てた。この戦略は、党大会に出席する各州の代議員の選出に当たり、各州で勝った候補にすべての、またはほとんどの代議員を割り当てる共和 党方式ではなく、各候補の得票率にほぼ応じて代議員を割り当てる民主党の比例代表制を十分に活用したものであった。

この戦略は、2008年1月3日、全米に先駆けて行われたアイオワ州党員集会で効果を発揮し、オバマはクリントンを制して予想外の勝利を収めた。 このアイオワ州での勝利が選挙の流れを変えた。ワシントン・ポスト紙が書いたように、「クリントンを破ったことで、(中略)オバマは彼女の最大のライバル としての地位、すなわち最有力候補としてのクリントンに対抗するだけのメッセージと組織力と資金力を持つ唯一の候補としての地位を確立して、この選挙の流 れを変えた」のである。

2月5日に22州で同時に行われた「スーパー・チューズデー」の予備選で、この戦略が再び功を奏し、オバマはクリントンとの戦いを同点に持ち込 み、西部と南部の農村部の州では圧勝した。さらに、その後2月中に行われた10州の選挙でも、オバマはこの戦略で連勝して代議員数でのリードを確実にし た。クリントンが代議員数でオバマに再び追い付くことはなかった。

オバマ大統領誕生

バラク・オバマは、最も若い米国大統領の1人である。1946~64年のベビーブーム世代の末期に生まれたオバマは、1980年代に成年に達した 初めての大統領でもあり、そのこと自体が変化の予兆とも言える。彼の育った時代の雰囲気は、これより前のベビーブーマーの物の見方を形成した、社会的に騒 然とした1960年代のものとは大きく異なっていた。はるかに年上の戦後世代の候補が争った2000年と2004年の大統領選について、オバマはかつて、 「時として私は、ベビーブーム世代の心理劇、すなわち、何年も前に一部の大学のキャンパスで生まれた恨みや復讐(ふくしゅう)に根差した物語が、全国的な 舞台で上演されるのを見ているような気分になった」と述べている。

左から、2008年6月3日の集会でのオバマ夫妻。この日の予備選で勝利した結果、民主党全国大会での指名獲得に必要な数の代議員を確保することができた、選挙運動用の専用機内で記者と話すオバマ氏、民主党全国大会でのオバマ(写真右)、バイデン(同左)の正副大統領候補。中央はそれぞれの夫人たち(2008年8月28日)

ニューヨーカー誌のラリサ・マクファーカーは、オバマが、明らかに従来の政治的な境界を超えて支持されていることについて、ひとつの持論を展開し ている。「オバマの投票記録は、上院でも有数のリベラルなものである。しかし、彼は常に共和党員にも受けがいい。それはおそらく、彼がリベラルな目標につ いて保守的な言葉で語るからであろう」

さらにマクファーカーはこうも書いている。「歴史に対する見方、伝統を尊重する姿勢、世界を変えることはできるが、そのペースは非常にゆっくりとしたものになる、と懐疑的な態度を取っているという点で、オバマは極めて保守的である」

オバマ大統領は、米国政治に新天地を切り開いた。彼が立候補したのは、まさに多くの米国民が、米国は根本的な方向転換を必要としていると考えてい た時だった。ワシントン・ポスト紙の政治コラムニスト、E・J・ディオンの次の文章は、オバマ候補の登場と米国の時代精神の偶然の一致を、端的に総括して いると言えるかもしれない。

「時代の流れは、経験ではなく、変革を必要としていた。選挙演説で最も重要視されたのは、細部の知識ではなく、人々を夢中にさせることだった。単に古き良き時代に戻るのではなく、過去ときっぱり縁を切ることが、公約として最も高く評価されたのである」