ゲーリー・シェイファー 在名古屋米国領事館首席領事

今年名古屋では日米関係において新たな節目を迎える。7月3日、在名古屋米国領事館は開設100周年を祝う。1920年7月3日、新米の外交官が名古屋駅近くの2階建ての簡素な建物に星条旗を揚げ、当館は正式にオープン。その後、日本の製造業の拠点かつ最大の港として発展してきた名古屋の歴史と重ね合わせるように、街の驚異的な成長を反映する一方その下支えにもなった。今日、初代領事館は姿を消し、現在の職員は高層ビルで働いている。だが、名古屋とアメリカがこの100年で築いた絆はかつてなく強い。

現在の名古屋からすると、アメリカがこの街に領事館を置くことは当然のように思える。愛知県は製造品出荷額で43年連続日本一であり、名古屋港も総貨物取扱量で18年連続首位だ。しかし昔からそうであったわけではない。名古屋が工業の中心地として台頭したのは19世紀のことだ。原動力となったのは繊維業と陶磁器業だった。しかし、名古屋の海は水深が浅かったため、生産品を外国に輸出するには伊勢湾対岸の四日市港まで荷物を運び、そこで外航船に積み替えなければならなかった。当然ながらアメリカは、中部地域において初となった外国公館を名古屋ではなく四日市に置くことにした。1909年に開設された「四日市米国代弁領事館」は小規模で、担当は名古屋に住むアメリカ人宣教師が臨時で務めた。輸出企業に「領事送状」という税関関連の書類を発行することが主な業務で、電車で四日市まで通っていた。

 

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その後の10年間で、アメリカとの貿易が活発となり、名古屋港が浚渫され世界の玄関へと生まれ変わると、当館を取り巻く状況も一変した。1919年、ハリー・ホーリー領事は、領事館を四日市から名古屋に移す命を受けた。1880年生まれのホーリーは、37歳にして外交官としてのキャリアに乗り出した転職組だったが、出遅れた分、実に粘り強かった。5年以上名古屋に滞在し、歴代領事の中で最も任期が長い。前職は政府役人付きの速記者として世界各地に赴任し、マニラ、上海、東京にも勤務したことがあった。1920年7月3日、領事として採用されてからわずか3年後、ホーリーは東区役所に隣接する2階建ての洋館に名古屋領事館を設置した。記録によると、建物は市から借り受けたもので、賃料はなんと150円!

ハリー・ホーリー領事と妻のアグネス

ハリー・ホーリー領事と妻のアグネス

ホーリーは1925年まで領事を務め、今日に至るアメリカと名古屋の緊密な経済関係の礎を築いた。1937年に開催された日本初の万博「名古屋汎太平洋平和博覧会」では、急速に拡大した名古屋とアメリカの貿易にスポットが当てられた。ダラス、ロサンゼルス、ニューヨークなどアメリカの主要都市が参加し、それを称える証として主催側は1937年4月24日を会場で「アメリカ・デー」として祝った。

領事館は太平洋戦争開戦前年の1940年に閉館となったが、1951年のサンフランシスコ講和条約調印直前に名古屋の中心部、栄で再開した。その翌年、初代帝国ホテルの設計に携わったフランク・ロイド・ライトの弟子で、アメリカ人建築家のアントニン・レーモンドがデザインしたナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク(シティバンクの前身)のオフィスビルの2階に移転した。ガラスとコンクリートの超現代的な建物で、戦後の前向きな時代精神を象徴した外見だったとも言える。この頃、名古屋にアメリカ第5空軍司令部が置かれたため(1946~1957年)、領事館は日米同盟を支えるという重要な役割を新たに担うことになった。

1950年代後半から1960年代にかけて、名古屋は急成長を遂げた。領事館もこの名古屋の驚異的な発展に負けじと存在感を増した。アメリカ政府は中区に職員宿舎を兼ねた3階建ての専用ビルを建て、7人の外交官が勤務した。1958年12月12日の開設式典には東京から駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世も駆けつけた。しかしその12年後、街も領事館も大ピンチに。石油ショックと通貨危機で名古屋経済が低迷する中、領事館は予算削減のため1970年に閉鎖された。

1980年代後半、さまざまな動きから貿易・投資のパイプ役としての領事館の価値に注目が集まり、領事館が復活する運びとなった。日本の自動車メーカーとして本田技研工業が初めてアメリカに生産拠点を設置してから4年後の1986年、大阪・神戸米国総領事館の副領事が名古屋に出向し、その後1993年に在名古屋米国領事館が復活した。開設式典には元副大統領のウォルター・モンデール大使が出席した。現在の領事館は名古屋国際センタービルの6階にあるが、ここへ移転したのは、名古屋にとっても歴史的な年となった2005年のことだった。同年、環境をテーマにした「愛・地球博」が開幕、6カ月におよぶ開催期間中2200万人が全世界から来場した。

領事館は現在、名古屋国際センタービルの6階にある

領事館は現在、名古屋国際センタービルの6階にある

在名古屋米国領事館は、市内の外国公館の中で一番歴史が長い。これは、日米が特別な絆で結ばれている表れであると言っても過言ではない。ちなみに、次に古いのがポルトガル名誉領事館(1921年設置)で、オランダ(1925年)、アルゼンチン(1928年)と続く。100年も存続した当館のことを、アメリカによる名古屋への長期的な投資と私は捉えている。時代によって日米間を繋ぐ人、モノ、アイディアは変わるとしても、その投資は相互理解と繁栄という貴重なリターンを一貫して生み出しているからだ。現在、名古屋経済のけん引役は繊維業から自動車産業へ変わった。(トヨタの関連会社が今でも織機を製造しているが。)また、自動車関連産業と航空宇宙産業におけるアメリカと名古屋のパートナーシップは、太平洋を挟んだ双方で雇用と利益をもたらしている。さらにもう一つ誇るべきことは、当館に赴任した外交官が、その後米政府の幹部へと出世していった事例が驚くほど多いことである。現役外交官だけを挙げても、在京米国大使館の報道官と政治担当公使参事官として、さらには駐コソボ大使として活躍している。これはひょっとすると「みそカツ」のパワーのお陰かもれしれない!

領事館では現在、懐かしい話や思い出の品を集め、他の楽しい記念日同様に、100周年を祝う準備を進めている。そんな中、忘れられない出来事が最近あった。テキサスの骨董品店がインターネットオークションに、ホーリー領事の妻が書いたハガキを出品しているのを私は偶然見つけ、しかもそれを購入できたのだ。名古屋からアメリカに郵送された1枚のハガキが、100年の時を経て名古屋へと戻ってきた。これを受け取った瞬間、100周年を迎える領事館の素晴らしいストーリーが一巡したような気がした。

 

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バナーイメージ:1920年当時の名古屋米国領事館