マイケル・ラフ

「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」とは、ホロコーストで殺された600万人のユダヤ人と、ナチスとその協力者によって迫害、殺害された200万人以上の人たちを悼む日です。一番重要なのは、自らの経験が今なお人々に影響を与えている生存者をたたえる日でもあることです。

国務省のホロコースト問題担当特使のエレン・ジャーメインは、「ホロコースト犠牲者を想起する国際デーとは、ホロコーストの重大性と、憎しみに歯止めがかからなくなると社会に何が起こりうるかという教訓を考えさせる日」と言います。

国務省で働くホロコースト生存者の子孫たちは、死を逃れた家族の体験談が自分たちの人生と職業選択に影響を与えたと言います。

ホロコースト生存者の継父を持つブリンケン国務長官はかつて、「彼の話は私の心を大きく揺さぶり、とてつもない大きな悪が世界では起こりうること、そして私たちはあらゆることをしてそれを食い止める責任があることを教えてくれた」と語ったことがあります。

ホロコースト犠牲者を想起する国際デーは、1945年にポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の解放日を記念して制定されました。ホロコースト生存者の子孫で、家族の体験が国際関係や外交関係の仕事に就くきっかけになったと語る3人のストーリーを紹介します。

マーク・ミシュキン、在パナマ米国大使館

マーク・ミシュキンの祖父、サミュエル・ゴールドバーグは、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の生存者でした。「ホロコーストは、私にとっては人権問題に関する漠然とした懸念ではありません。それは、個人的なことに深く根差しているからです」

ミシュキンはかつて祖父から、収容所の煙突が一晩中稼働していたこと、そしてそれは収容所にいたロマ族を一人残らず殺し、その遺体を一晩中燃やしていたからだと後から知ったと言う話を聞いたことがあります。

「祖父は神に尋ねたと言います。『そこにいた人はみな同じ罪を犯したので焼かれなければならなかったのか』と」。ここで言う「罪」とは、ナチスの主張によれば、ロマ族であることでした。

祖父の写真を手に持つマーク・ミシュキン (Courtesy Mark Mishkin)

祖父の写真を手に持つマーク・ミシュキン (Courtesy Mark Mishkin)

ミシュキンは、祖父のこの経験とアメリカを愛する気持ちが国務省で働くきっかけになったと言います。

「アメリカが私たち家族に与えたくれたことに深く感謝している気持ちが、日々の仕事にまい進する原動力になっています」

ジョナサン・シュライヤー、在イスラエル米国大使館

ジョナサン・シュライヤーは、外交官から命を救われたホロコースト生存者の子孫にあたります。父親、祖父母、曾祖母は、数カ国の外交官の助けを借り、ポーランドからアメリカへと亡命しました。祖父はリトアニアの首都ビリニュスにあるスイス大使館に知り合いがいて、その人からカウナスの日本領事館の杉原千畝副領事と、オランダ領事館のヤン・ズヴァルテンディク名誉領事の紹介を受けたと言います。

2021年のホロコースト犠牲者を想起する国際デーに追悼のろうそくをともすジョナサン・シュライヤー (U.S. Embassy Jerusalem/David Azagury)

2021年のホロコースト犠牲者を想起する国際デーに追悼のろうそくをともすジョナサン・シュライヤー (U.S. Embassy Jerusalem/David Azagury)

杉原とズヴァルテンディクは「命のビザ」を発給し、それによって一家はシベリア横断鉄道に乗車し(スウェーデンの通行証で保護)、横浜まで到達することができました。その後、ホロコースト避難民を運んだアメリカに向かう最終便の1つに乗ることができました。

アメリカに着くと避難民受け入れ人数が上限を超えていたため入国を拒否され、メキシコシティへと向かいました。家族がそこに留まることができたのは、祖父がポーランド亡命政府大使館で商務官として働いていたからでした。数年後、入国許可を得てアメリカに行くことができました。

現在、在イスラエル米国大使館の首席公使を務めるシュライヤーは、「ホロコースト生存者の勇気と機知は私に大きな影響を与え、外交官になろうという私の決断を後押ししてくれました」と語りました。

スーザン・R・ベンダ、首都ワシントン

ベンダの両親は旧チェコスロバキアから逃れてきたホロコースト生存者です。母親はテレージエンシュタット強制収容所とアウシュビッツ強制収容所を生き延びました。父親はアジアに逃れ、そこで日本によって投獄されましたが、その後アメリカへと亡命を果たしました。父親の両親はヘウムノ絶滅収容所で殺されました。

ベンダは現在国務省の顧問弁護士として働いています。「子どもの頃、両親は昔のことを決して話しませんでした。私たちはユダヤ人であること、両親には訛りがあること、そして親戚が1人もいないことは分かっていました」

ベンダの母親は1979年、エール大学の口述歴史プロジェクトでインタビューを受け、そこで初めて公の場でホロコースト生存者としての自らの経験を語りました。ベンダの父親はエール大学の教授で歴史学を教えていましたが、1971年に亡くなりました。

20年以上にわたり国務省で働いてきたベンダは、正義の擁護者になるという目的を達成しました。兄もまた国務省の職員でした。兄と共に国務省で果たした役割は、両親が愛した新しい祖国が、「憎しみ、分断、抑圧の声に立ち上がり、世界の民主主義と正義の光としての役割を果たす」ようにすることだと話しました。

子どもたちのホロコースト体験談のまとめた本の表紙を飾るスーザン・ベンダの母、エバ・ベンダ。ベンダの話は「プラハからテレージエンシュタット、そして生還(From Prague to Theresienstadt and Back)」の章に掲載されている (State Dept./D.A. Peterson)

子どもたちのホロコースト体験談のまとめた本の表紙を飾るスーザン・ベンダの母、エバ・ベンダ。ベンダの話は「プラハからテレージエンシュタット、そして生還(From Prague to Theresienstadt and Back)」の章に掲載されている (State Dept./D.A. Peterson)

バナーイメージ:1952年、ホワイトハウスの前に立つ両親、ハリー・ベンダとエバ・ベンダの写真を手に持つスーザン・ベンダ (State Dept./D.A. Peterson)