ジェイソン・ハイランド 在日米国大使館 首席公使

日米関係の歴史には、その友好の真価を象徴する出来事が数多くありますが、中でも津田塾大学にまつわる物語には特に興味をそそられました。高橋裕子学長のお 招きで、肌寒い秋の一日、小平市にあるキャンパスを訪れました。木々は紅葉しており、歳月を経た風情ある校舎を目にしたとき、米ニューイングランド地方の美しい小さな大学を思い出しました。私は大学が保管する貴重品の一つで、アメリカとの結びつきが同校の歴史に織り込まれていることを示すあるものを見ることを、特に楽しみにしていました。

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創立者の津田梅子が、1871年他の4人の少女と共に日本政府の視察団の一員としてアメリカに渡ったのは、わずか6歳のときでした。この訪米でアメリカの生活文化を直接体験し、米国社会で女性が果たす重要な役割に関する秘訣を持ち帰ったのかもしれません。17歳で帰国した彼女は、幼少時に離れることになった母国を見直し、日本語を学び直さなければなりませんでした。梅子は後に、米国ペンシルバニア州の名門女子大ブリンマー大学に再留学しましたが、同校では私の娘もひと夏を過ごし、ロシア語を学習しました。同校で梅子が作り上げた、献身的で影響力を持つ女性達との人脈は、彼女が生涯に渡り女性教育活動を続ける支えとなったのです。

梅子が1900年に創立した津田塾大学は、今日に至るまで発展し続けています。梅子は資金集めにあたり、類まれなる才能を発揮しました。学校施設の建設やプログラムの立ち上げに資金が必要となれば、彼女は米国に渡り、アメリカ各地で女性団体に働き掛け、寄付を呼びかけたのです。1923年の関東大震災後にも、全米を縦横に駆け巡り、新校舎本館建設のための資金を募りました。著名な建築家佐藤功一氏が 設計した本館は、現在もその誇り高い姿を見せています。同館はハーツホン・ホールと呼ばれ、もう一人の勇敢な女性であるアナ・コープ・ハーツホンの 名前に由来しています。ブリンマー大学で梅子と出会ったハーツホンの尽力で、当時としては破格の50万ドルもの巨額の寄付が集まり、今も残る校舎が再建されました。

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私は、当時の授業で使用されていた貴重な入門書や教科書などの保管物の中から、お目当てのお宝を見つけました。梅子は、大変自然な英語で意思疎通を図っており、米国滞在中に預けられた先のアメリカ人の母ともいうべき女性と生涯に渡り文通を続けました。梅子は、これらの手紙を戦時中には津田塾大学本館の屋根裏に隠していました。1980年代に発見された手紙の中には、彼女が亡くなるわずか数日前にしたためられたものも含まれており、それは梅子の人生を生涯にわたり支え続けたアメリカの家族との深い絆を物語るものでした。

教室で講演した後に、心を打たれる瞬間が訪れました。高橋学長と才能に恵まれた学生らと、ある絵の前で記念写真をとりましたが、その絵は、梅子を含む5人の日本人少女がサンフランシスコに到着したときの様子を描いています。梅子は余りに小さかったために、ステップに乗って船べり越しに海を眺めているのです 。この才能に溢れた子供の勇気こそが、その後成人した後も、日本女性を支援するためにあらゆる困難にも立ち向かって行った女性の勇気なのです。

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日米友好の深い土台、和解の精神、そしてこれからの協力の限りない可能性を象徴するこの大学で、さまざまなことに思いをはせる一日を過ごすことができたことは有意義でした。安倍首相とオバマ大統領が二人で真珠湾を訪れる歴史的な瞬間を目にしたとき、和解とパートナーシップが持つ果てしない力に改めて心が動かされました。

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