ジェイソン・ハイランド 在日米国大使館 首席公使

1995年1月17日午前5時30分ごろ、どういう訳か暗いうちに目が覚め、ベッドから起き出しました。地震の揺れを感じたとき、私は廊下に立っていました。テレビをつけると、午前5時46分に壊滅的な地震が神戸市や淡路島、その周辺地域を襲ったことをすぐにNHKが報じ始めました。どうやら私が東京で感じた揺れは、その直前に起きた全く別の地震だったようです。

当時、私は東京大学の外国人客員研究員でした。次第にすさまじさが増す惨状のニュースに、他の方々同様信じられない思いで一日を過ごしました。その日が終わるころになってようやく当然のことに気がつきました。ボランティアとして支援に行かなければ。私は、被災地を支援する小チームを編成していた在日米国大使館の領事部長のもとに駆け付け、翌日他の4人のチームメンバーと共に新幹線で大阪に向かいました。当時大使館に勤めていた勇敢な日本人運転手は、ジープに物資を積んで別途、大阪に向かいました。寒い避難所で寝ることになると予想し、急いで詰めた一番暖かそうな衣類と、必要と思われる物を手当たり次第詰めたバックパックを担いで行きました。

鉄道は地震で文字通り寸断され、高速道路は一部倒壊していました。大阪から神戸に早く着くにはヒッチハイクしかないと判断しました。神戸に取り残されたおばさんを助けに向かう若者2人の車に乗せてもらうことができました。道路はひどい渋滞です。途中警察の検問があり、どうしても行く必要がある人たちだけが通されました。警察官に行き先を聞かれたとき、2人に私の外交官の身分証明書を見せるよう渡しました。警察は難なく通してくれました。その後も次々に検問を通過することができたので、すぐに2人は私の外交特権の大ファンになりました。神戸に着くと2人にお礼を言い、歩き始めました。

U.S. Embassy that assisted with recovery efforts after the Great Hanshin Earthquake.

米国大使館は、阪神・淡路大震災後の復旧活動を支援しました

火災はすでに鎮火され、町は思ったより静かでした。近代的な建物はおおむね無傷のようでしたが、古い木造家屋の多くは完全に倒壊していました。西宮駅は暗く人影もなく、商店街のアーケードは被害を受けて危険な状態でした。その後5日間、アメリカ人の安否と消息を調べ、他にも必要であれば支援できる体制を整えていました。今でも当時の様子が頭をよぎります。あのような壊滅的な被害に直面しながらも秩序を保っていた住民の方々を思い出します。夜、暗い通りを歩いていると、何とか屋台を町の中心まで運んできたラーメン屋に突然出くわしました。住人たちは、温かいラーメンとつかの間の日常生活を喜んでいました。明治維新のころまでさかのぼる歴史を持つ神戸外国倶楽部は、避難所として多くの外国人被災者に開放され、被災者はダイニングルームの床で寝ていました。震災で負傷し、小さな病院で治療を受けている若いアメリカ人に会いました。ニューヨークにいる母親に無事を知らせる手助けをし、とても喜ばれたのを覚えています。でもなにより、被災地支援に駆け付けた献身的なボランティアの方たちが忘れられません。

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神戸にある「人と防災未来センター」を訪問しました

阪神・淡路大震災から21年たった昨年、震災でお亡くなりになった方々を追悼するため神戸市を再訪しました。復興を遂げた町に感銘を受けましたが、驚きはしませんでした。あのような壊滅的な被害を受けた最中でさえ、この美しく魅力ある町の誇りと豊かな歴史を感じたからです。神戸の歴史は、日本におけるアメリカ外交史と深く結びついています。この地に最初に領事館を設置したのは19世紀後半です。

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神戸・三宮の東遊園地にある「阪神淡路大震災メモリアルモニュメント・1.17希望の灯り」を訪れ、犠牲者を追悼しました

あの震災から22年目の今日、お亡くなりになった全ての方々のご家族とご友人に心から哀悼の意を表します。