2016年5月27日、バラク・オバマ大統領は、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問した。平和記念資料館を見学した後、平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花し、演説した。式典には、日本側の招待客に加え、アメリカ政府が招いた被爆者や日米関係に貢献した方々が家族と共に列席し、オバマ大統領の演説に聞き入った。米側が招いた列席者は次のとおり。(順不同)

 

森重昭さん

自らも被爆者である森重昭さんは、広島の原爆で亡くなった12人の米軍兵士の捕虜が、原爆の犠牲者と認められるよう、たゆまぬ努力を重ねた。41年以上かけて彼らの足跡をたどり、遺族が気持ちの整理をつけ、慰めを得られるよう力を尽くした。またこの国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の死没者名簿に彼らの名前を登録するために遺族を支援した。森さんの長年の取り組みを描いた映画「灯籠流し」についての記事はこちら

伊東次男さん

伊東次男さんは子どものころ被爆し、兄を放射能中毒で亡くしている。成人して結婚し、地元の銀行に勤務しながら2人の子どもを育てた。2001年9月11日に同時多発テロが発生したとき、長男の和重さんはニューヨークのワールド・トレード・センターで働いていた。和重さんは初め行方不明とされたが、その後死亡が宣告された。長男を亡くしたにもかかわらず、伊藤さんは自らの悲しみを、より平和な世界の実現に向け取り組む力とした。これまでにケネディ大使をはじめ何人かの駐日米国大使と面会したことがあり、在日米国大使館で行われた同時多発テロの犠牲者を追悼する式典にも参加している。

カノウヨリエさん

カノウさんはわずか2歳で、両親、弟と共に、広島の爆心地から800メートルの場所で被爆した。弟は胃の病気で6カ月後に亡くなった。原爆投下の際妊娠していたカノウさんの母親は、1946年3月にトシハルさん(次項を参照)を出産した。カノウさんの両親はハワイ生まれの日系2世で、第2次世界大戦前に日本に帰国していた。カノウさん一家はその後、米国に戻った。カノウさんは現在カリフォルニア在住。今回の広島訪問は45年ぶりの里帰りであった。

カノウトシハルさん

カノウトシハルさんは広島への原爆投下の半年後、1946年3月に生まれた。母親の胎内で被爆。これまで放射能汚染が原因と思われる、さまざまな病気に苦しんできた。現在、妻とユタ州に在住。家族の歴史を振り返った本「Passport to Hiroshima」を執筆した。2歳のときに米国に移住。以来、初めての広島への里帰りとなる。

丹羽太貫博士

2015年6月から、米国エネルギー省と厚生労働省が共同で助成する、「放射線影響研究所(放影研)」の理事長を務めている。放影研は、広島、長崎に研究施設を持ち、被爆者の健康と福祉の向上に資することを目的に、平和目的で放射線が人に及ぼす医学的影響および関連した疾病の調査研究を行う。同研究所は、チェルノブイリおよび福島の被ばく実態を調査する、科学者および医療関係者と連携しており、長期間および数世代にわたる人類への放射線の影響の研究で世界的な研究機関として知られている。丹羽博士は神戸生まれ。京都大学理学部を卒業。1975年、スタンフォード大学で生物物理学の博士号を取得。

岩竹恵美子さん

岩竹恵美子さんは広島で被爆し、後に岩竹・ウォレン・信明さん(故人)と結婚した。信明さんは米国市民だったが、父親の死去に伴い一家がハワイから広島に移住した後、日本軍に召集された。末弟の孝さんが広島の原爆の犠牲になったとき、信明さんは太平洋で軍の任務に就いていた。1944年9月、信明さんが父島にいたとき、撃墜された米軍のパイロットが米軍の潜水艦に救命いかだで救助されるのを目撃した。そのパイロットは、後のジョージ・H・W・ブッシュ大統領だった。父島にいたとき、米兵捕虜ウォレン・ボーン(Warren Vaughn)と友情を育んだ信明さんは、戦後「ウォレン」を名乗り、残りの人生を日米友好の促進にささげ、在日米国大使館の広報・文化交流部門で34年間働いた。2002年に退役軍人が再会する集まりが父島で開かれ、ブッシュ大統領と対面した。信明さんは2012年に死去した。