レノア・アドキンス

1890年代後半、命がけでリンチの恐怖を暴いた調査報道ジャーナリスト、アイダ・B・ウェルズは、何世代にもわたりジャーナリストを勇気づけてきた彼女の力強い報道が評価され、5月4日、ピュリツァー賞の死後特別賞を受賞しました。

表彰にあたりピュリツァー賞選考委員会は、「リンチが行われていた時代のアフリカ系アメリカ人に対する恐ろしく悪質な暴力について、傑出した勇気ある報道」をしたとして、ウェルズをたたえています。ウェルズの使命を支持し、受賞と共に少なくとも5万ドルが遺贈されます。受取人は後日発表される予定です。

選考委員会は、世界報道自由デーの翌日にこの栄誉を発表しました。ウェルズの遺産は多くの人に対し、報道の自由とは何かを明確に示しています。

ウェルズは、まだ女性に選挙権がなかった時代、自分と同じ人種に対する残虐行為について勇敢に報道しました。奴隷制廃止後かなり経てから報道された彼女の調査は、白人暴徒が暴力によりアフリカ系アメリカ人を支配しようとした企てを暴露しました。

米国におけるリンチの統計や、詳細なデータや写真が掲載されたウェルズのレポート (The Frederick Douglass Papers/Library of Congress)

米国におけるリンチの統計に加え、詳細なデータや写真が掲載されたウェルズのレポート (The Frederick Douglass Papers/Library of Congress)

「彼女は真実のみを掌握していました」。ウェルズのひまご娘、ミシェル・ダスターさんはシカゴ・トリビューン紙に述べています。「彼女はジャーナリズムを、何が起きているかを伝えるツールとしてだけでなく、ジャーナリストとしてのスキルを力の限り使い、社会の変革に影響を与えようとしたのです」

1862年、奴隷制度下のミシシッピ州に生まれたウェルズは、将来の活動家や記者への道を切り開きました。

テネシー州メンフィスで全国的な反リンチ運動の立ち上げに貢献。「フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト(Free Speech and Headlight)」新聞社を共同所有し、編集と報道に携わりました。そして超法規的殺人を非難する記事を発表しました。ウェルズはまた、数カ月間南部を1人で旅し、何百件ものリンチ事件を調査しました。

暴徒が新聞社の事務所を破壊した後、ウェルズは二度とメンフィスに足を踏み入れないと決めました。シカゴに移り住み、現地報告の成果を2冊の小冊子にまとめ発表しました。1892年の「サザン・ホラーズ(南部の恐怖)」と、1895年に発表されたデータに基づく大型レポート「レッド・レコード(鮮血の記録)」です。

バナーイメージ:1920年当時のアイダ・B・ウェルズ (© Chicago History Museum/Getty Images)