相良妃貴 在日米国大使館 報道室インターン

ジョン・ビンガム。その名を知る人はあまり多くないでしょう。私も彼を知らない一人でした。ジョン・ビンガムは、駐日米国公使として明治時代初期の日米外交に大きく貢献した政治家です。先日、東京女子大学にて、彼を研究している元米国外交官サム・キダー氏による講演会が開催されました。またその翌日には、米国大使館でキダー氏に直接お話を伺う機会を得ました。本稿では、キダー氏の話をもとに、ジョン・ビンガム駐日公使が日本で過ごした12年間の功績について考察します。

アメリカ大使館内に飾られた歴代大使の写真の中には、ビンガム公使の写真もある

アメリカ大使館内に飾られた歴代大使の写真の中には、ビンガム公使の写真もある

ジョン・A・ビンガム(John Armor Bingham、1815-1900年)は、幼少期をペンシルベニア州とオハイオ州の2つの小さな町で過ごしました。1854年にオハイオ州の下院議員に選出され、第16代米国大統領エーブラハム・リンカーンのアドバイザー役も務めましたが、一番の功績は米国憲法修正第14条を草稿したことです。南北戦争後に成立したこの条項には、市民の身分の広範な定義が盛り込まれており、現在にいたるまで人権擁護の重要な根拠となっています。1873年9月、グラント大統領の命を受け駐日米国公使として着任し、1885年7月までの約12年間、その責務を担いました。彼の12年間の任期は、現在までの歴代大使・公使の中で最長です。ビンガムの外交官としての功績は多くありますが、今回はそのうち2つを取り上げたいと思います。

米国公使館の移転、外交拠点としての基盤構築

ビンガムが日本に着任した明治時代初期、米国大使館の名称は「米国公使館」でした。東京の米国公館長の正式な肩書きに“大使”が使われるようになったのは20世紀初頭のことです。大使館や公使館は、ホスト国政府との外交拠点として重要な役割を担います。ビンガムの時代の公使館業務は主に以下の6つで、その多くが現在も行われています。

  1. 日本政府と関係を構築すること
  2. 東京での政治情勢をワシントンへ報告すること
  3. 米国に利益をもたらす行動を取るよう、日本政府に働きかけること
  4. 日本にある他国の大使館・公使館との関係を構築・維持すること
  5. 日本に滞在する米国人の世話・監督をすること
  6. 米国公使館の組織を運営すること

しかし、ビンガム公使が日本に到着した頃、米国公使館はその機能は限られていました。前任の公使は横浜のホテル住まいで、東京に来て日本の政府関係者と会合を持つこともほとんどありませんでした。また、スタッフの数も不足していました。そこでビンガム公使は、現地スタッフを採用して職員を増やし、公使館を東京の築地へと移転させることで、公使館の体制を整えていったのです。

聖路加国際病院に残るアメリカ公使館跡石標。かつてこの地に公使館があったことが刻まれている

聖路加国際病院に残るアメリカ公使館跡石標。かつてこの地に公使館があったことが刻まれている

不平等条約の見直し

江戸時代末期、開国したばかりの日本は諸外国と条約を締結しましたが、概して日本に不利で屈辱的な不平等条約でした。例えば、治外法権や関税自主権の問題です。治外法権により、外国人居留地での外国人による犯罪行為に対し、日本政府には裁判権がありませんでした。また、関税自主権がなかったことで、日本は関税を自ら決められず、明治政府の深刻な財政問題の原因となっていました。

ビンガム公使はこうした不平等条約の見直しを推進しました。不平等条約改正を支持していた米国人宣教師グループから影響を受けたこと、また、関税自主権がないままでは明治政府が弱体化し、アジアに進出しようとするヨーロッパ諸国、特にイギリスの標的になると懸念したことが理由でした。米国政府は、日本が西欧列強に支配されることを望んでいなかったのです。

ビンガム公使の在任中に不平等条約が改正されることはありませんでしたが、彼が行った米国公使館の基盤構築、そして不平等条約見直しの推進は、現在まで至る日米外交の重要な起点となりました。窓口を整えたことで日米外交が進展し、後年の条約改正への道筋をつけました。グラント大統領が、当時米国でも大物とされていた政治家を公使として日本に派遣したことからも、米国が日本との関係を重要に思っていたことが分かります。

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東京女子大学で講演するキダー氏

講演の翌日、キダー氏に話を伺いました。ビンガムに興味を持ったきっかけについてキダー氏は、ビンガムが当時、政治的に重要な意味を持つ存在だったこと、そして彼の出生地が自分の現在の住まいに近かったことを知ったからだと語りました。彼の存在がキダー氏に与えた影響は何かと尋ねると、次のように答えてくれました。「人々は歴史を学ぶとき、戦争や悲惨な出来事などに意識が向きがちです。しかし、歴史の陰には、彼のように名前も知られていない功労者も存在します。私が彼に興味を持ったのは、社会的名声のためでなく、自分の価値観に従って何かを成し遂げようとしたからで、そのような人々は他にもたくさんいると思います」。歴史をさまざまな角度から見ることが大切だということをビンガムから学んだ、ということだと思います。

25年以上にわたり、外交官としてアジアを中心に活躍してきたキダー氏からは、日本の若者に向け「Do everything you can!」というメッセージをいただきました。「できることは何でもしてください。本を読んだり、さまざまなものを見て、いろいろなところへ行き、たくさん勉強してください。日本は素晴らしい国ですが、時には快適な場所から出て行くことも必要です。明治時代のリーダーたちは、この点を理解していました」

私は今回、ジョン・ビンガムを初めて知りましたが、彼の功績は、現在の友好的な日米関係の礎のひとつになったと感じました。キダー氏の言うとおり、歴史をもっと多面的に知ろうとすれば、違う発見が生まれるでしょう。これは私たちにとって、とても価値のあることだとあらためて思いました。

サム・キダー(Sam Kidder)
米国商務省の外交官として25年以上にわたり日本、韓国、インドを中心に精力的に活動、在日米国大使館の商務担当公使を担当した後、在日米国商工会議所(ACCJ)専務理事として8年間勤務。2015年米国に戻り、現在は日本大手広告会社専属のクリエイティブ・ブティックの取締役を務めている。