森 佳奈 アメリカ大使館 広報・文化交流部

2020年は、アメリカの女性に投票権が認められた、アメリカ合衆国憲法修正第19条の承認から100年を迎える節目の年である。今となっては当たり前だが、女性の権利が法律で守られるようになり、後に女性の社会進出に大きく貢献した重要な出来事となっている。さらに、その影響というものは世界にも広がりを見せ、はるばる日本にも届いていた。同じ志を持つ日米の女性たち、その道のりはいかなるものだったのだろうか。

アメリカの歴史をたどると、女性の平等の権利を確保しようとする運動は19世紀頃より活発になり、多くの女性が積極的に社会問題に取り組むようになっていった。その中心的な存在で先駆者として動いていたのが、エリザベス・キャディ・スタントン、ルクレシア・モットとスーザン・B・アンソニーである。彼女たちは女性の地位向上を目指してさまざまな活動を行い、スタントンとモットは1848年に女性の権利をテーマに会議を運営、この時アメリカの独立宣言をモデルにした「感情宣言」という草案を作成している。そして、女性のさまざまな権利をうたっているこの宣言の中で特に注目されたのが、その当時初めてとなる女性の参政権を打ち出していたところにある。それ以降も、彼女たちは絶えることなく熱心に理念を説き続け、アンソニーはアメリカに留まらず、国際女性会議や国際参政権同盟を設立して、その活動を国際的レベルに引き上げていった。支援の輪は一段と広がり、彼女たちが亡くなった後もこの熱い思いは次の世代に引き継がれた。最終的にアメリカの女性に投票権を認める道が開かれ、1920年にアメリカ合衆国憲法修正第19条が批准されるに至ったのである。

さて、同じ時代に日本でも女性の地位向上に奔走し、教育者そして社会事業家として名を馳せた人がいる。矢嶋楫子(やじま かじこ)である。92歳まで生きた楫子は80歳を過ぎても精力的に活動を続け、3度もアメリカに渡り多くの人と交流をもったことでも有名だ。今はあまり知られていないが、その当時日米の女性の架け橋となった人物であり、両国で一目置かれる存在であった。そもそも楫子はどのような人生を歩んだのだろうか。

アメリカ訪問時の矢島楫子矢嶋楫子。女性参政権活動家記念像の前で。1921年11月9日 (Library of Congress)

アメリカ訪問時の矢嶋楫子。女性参政権活動家記念像の前で。1921年11月9日 (Library of Congress)

矢嶋楫子は熊本県益城町の出身で、実家は有数の惣庄屋であった。25歳の時に武家出身の林七郎と結婚したものの、家族への乱暴や酒乱の悪癖のため、その後自分から離婚を言い渡すという行動を取り周りを驚かせ、実家に戻った過去がある。そして、後に兄の看病のため上京することになるが、その旅中に大きな船も小さな楫で動く様子を見て、「自分も今後この楫を以って我が生活の羅針としよう」という決意のもと、それまでの名前の「勝子」から「楫子」へと改名する。固い意志の持ち主である。上京してからは兄の快復に伴って、楫子は自立するため、教員として働き始める。そこで楫子は新たな一歩を踏み出し、その後の人生に大きく関わることになる人物に出会う。アメリカ人のミセス・ツルーである。ニューヨーク州の小さな村出身のツルー夫人は宣教師としてアジアに渡り、その後来日。女性の教育にとりわけ力を入れ、新栄女学校の校長を務めていた。楫子は教師としての評判が良く、それを聞きつけたツルー夫人が自分の学校に誘う。楫子はこの誘いを驚きながらも受けることになり、ここから楫子は教育者としてさらに踏み込んだ人生を歩むことになる。1878年のことであった。その後、学校の合併により誕生した女子学院の初代院長となり、さらに女性の教育を向上させたい思いから、ツルー夫人と共に看護教育や幼児教育にも力を注ぐ。

もう一つ楫子が熱心に取り組んでいた活動が日本キリスト教婦人矯風会の社会事業である。楫子はツルー夫人と日々接することで、信仰に導かれ、1879年に洗礼を受けている。その後は日本の女性たちの賛同の下、楫子はまず東京、そして後に全国組織の会頭に就く。この矯風会はキリスト教の精神に基づき、女性と子供の人権を守る活動を続けており、婦人参政権に向けた運動も行なっていた団体である。

署名簿を手にする矢嶋楫子。1921年11月7日 (Library of Congress)

署名簿を手にする矢嶋楫子。1921年11月7日 (Library of Congress)

楫子は矯風会の日本代表という立場から1906年と1920年に渡米している。最後の訪問となったのは1921年のこと。一個人として平和軍縮会議ワシントン大会に出席するためであり、89歳という高齢ながら積極的に活動をこなした。世界で不穏な動きがある中、90歳近い小柄な女性がはるばる日本から来ているという事実は、アメリカ人にとっても心に響いたのは確かである。平和を求め、女性のために人生を懸けた楫子の様子はアメリカで注目され、新聞などでも大きく取り上げられていたのである。その当時の記事によると、アメリカの参政権運動に尽力したスタントン、モットとアンソニーを讃えて作られた記念像前での式典で、楫子は次のような挨拶を行なっている。「アメリカそして世界の女性のため、参政権運動にご尽力頂いたこの方たちに敬意を表します。我が国においてはあなたたちアメリカの女性が昂然と立ち向かって行ってきた活動を始めたばかりであります。私はこの場所での情景を我が国に持ち帰り、日本の女性の原動力となるよう努めさせていただきます」。楫子の前向きな姿勢はアメリカのウォレン・ハーディング大統領に謁見した際にも見て取れる。今回の旅の目的の一つに日本から持参した署名簿を手渡すことがあったが、この書物には、平和を願う日本の女性たちから集めた1万あまりの署名が載っていた。大統領に献呈した手紙には聖書から引用した次の一節が書いてあった。「凡て後にあるものを忘れ、前に向って進み、世界平和のために、御盡力下さる事を感謝を以て希望し祈るものであります。」

楫子の訪問を報じるEvening Starの紙面(1921年11月10日)。式典でのあいさつ文も掲載されている。クリックで拡大 (Library of Congress)

楫子の訪問を報じるEvening Starの紙面(1921年11月10日)。式典でのあいさつ文も掲載されている。クリックで拡大 (Library of Congress)

100年前に矢嶋楫子が女性のためにその一生を捧げ、大きな足跡を残したことに感銘を受けたが、それ以上に苦難を乗り越えて自分の道を切り開いていった姿や、80歳を過ぎても海外に渡り、前を向いて精力的に動いたことは今の時代でも簡単に成し遂げられるものではない。遥か先を常に歩いていた矢嶋楫子は時代を超えて現代を生きる私たちに道標となるべく大切なことを伝えようとしていたのではないだろうか。

バナーイメージ:女性参政権活動家のエリザベス・キャディ・スタントン、スーザン・B・アンソニー、ルクレシア・モットの胸像。アメリカ人彫刻家アデレード・ジョンソンの作品

***

取材協力:女子学院

参考資料:『矢嶋楫子伝』久布白落実編 大空社
『われ弱ければ』三浦綾子 小学館文庫
アメリカ議会図書館資料