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20歳になる前日のことである。永谷正輝は近所の友人から、カントリーミュージックのカバーバンドによるライブコンサートをプレゼントされた。弦楽器が奏でる陽気な音と魂を揺さぶるような歌詞は、その後に彼が進む方向を決定付けた。63年後の現在、ライブハウス「グッド・タイム・チャーリー」のオーナーであり、名高いカントリーミュージックの祭典「カントリーゴールド」の陰の立役者となった「チャーリー永谷」は、日本のカントリーミュージック界の巨匠として知られている。

日本のカントリーミュージック界の巨匠チャーリー永谷

日本のカントリーミュージック界の巨匠チャーリー永谷

アメリカン・ビューは永谷とのインタビューで、20歳の誕生日の翌日に大学を中退し、誕生日会で演奏していた「ヒルビリー・ジャンボリー」と電車に乗り、故郷を後にした理由を聞いてみた。答えを考える間、永谷はあごひげを触り、メガネをかけなおし、時には鼻唄を歌っていた。そして、ひじをテーブルに載せ、指でトントンとリズムをとりながら、「素朴、真心、哀愁」という3つの言葉をあげた。これこそが、朝から晩まで聞いても決して飽きることのないカントリーミュージックの神髄を表していると言う。

しかし、両親は永谷の情熱を受け入れられずにいた。そんな馬鹿な夢はあきらめて、学校に戻るよう彼に懇願した。しかし、永谷は聞き入れなかった。「絶対にやめない。生きている限り歌い続ける」と固く心に誓った。

彼は自分の誓いを守った。その後20年間、日本各地の米軍基地をはじめ、グアム、フィリピン、台湾で演奏活動を行った。米軍兵士から「チャーリー」と呼ばれるようになったのは、このような初期のツアー中である。このニックネームは定着し、1961年に故郷の熊本に帰ると、自分のバンドを結成しようと心に決めた。

永谷のバンド「チャーリー永谷&キャノンボール」には、結成以降、総勢82人が参加している。「グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュビルで行われるカントリー・ミュージックのライブ放送番組)」には29回出演。カントリーミュージックのファン層を広げようと熱心に取り組んだ。「一度聞けば、誰もがカントリーミュージックを絶対に好きになるから!」と、永谷は言う。

しかし、地元で有名になるまでの道のりは厳しいものだった。「カントリーミュージックで食べていくのは簡単なことではなく」、演奏を続けるため、ツアー中は何度も友人の世話になった。しかし、自分を疑ったことは「一度もない」。「こんなことができるのは、私のような変わり者だけ」と話す。

1976年、ついに彼の決意が実を結ぶ。熊本初のカントリーミュージック専門ライブハウス「グッド・タイム・チャーリー」をオープンさせたのだ。入りやすくフレンドリーな雰囲気の店の木の壁は、友人たちからの手紙やカントリーミュージックの思い出の品々、有名アーティストのサインが入ったカントリーミュージック関連ポスターなどで埋め尽くされている。永谷のアメリカ文化への愛情は、「グッド・タイム・チャーリー」だけでなく、偉業になりえるプロジェクトにも注がれた。

1989年、永谷は阿蘇山のふもとでカントリーミュージックの祭典「カントリーゴールド」を初開催し、8000人の観客を動員した。カントリーゴールドは、日本にカントリーミュージックを広めたいという永谷の情熱が実を結んだもので、今年で30周年を迎える。「アメリカンスタイルの音楽祭」としながらも、日本的要素も取り入れている。会場の屋台では、アルコール類、ピザ、ステーキなどの他に、焼き鳥やおにぎりも売られている。来場者は、広い草原にピクニックシートを広げて、くつろぎながら音楽を楽しめる。

カントリーゴールドの来場者数は、1998年までには3万人へと膨れ上がった。アルコール類は販売されているが、「もめごとは一度もない」と永谷は胸を張る。「飲んだり食べたりした後はゴミが散らかっていると思うでしょう。でも、ポイ捨てする人はいないのです」。カントリーミュージックファンでない人にも、音楽祭に来て、素晴らしい雰囲気を味わってほしいと永谷は言う。

米空軍太平洋音楽隊「パシフィック・トレンズ」のステージ

米空軍太平洋音楽隊「パシフィック・トレンズ」のステージ

ウエスタン衣装に身を包んだ来場者の楽しみは、永谷の音楽だけではない。アメリカ人アーティストや地元バンドの演奏も人気だ。今年は、ノエルとベンのハガード兄弟(カントリー界の伝説、マール・ハガードの息子)、アシュリー・キャンベル(カントリーミュージックのスター歌手、グレン・キャンベルの娘)、米空軍太平洋音楽隊「パシフィック・トレンズ」がゲスト出演する。阿蘇山を一望する広い野外ステージの前では、ラインダンスのパフォーマンスもある。おそろいの衣装にカウボーイブーツをはいたダンサー達が、音楽に合わせて足踏みやターンをし、リズムを刻む。

カントリーゴールドのステージ前でラインダンスを披露するダンサー達

カントリーゴールドのステージ前でラインダンスを披露するダンサー達

川嶋「ロバート」捷功が、カントリーミュージックにはまったきっかけは、ラインダンスだ。退職後、健康のため妻から社交ダンスを勧められたが、今ではラインダンスのベテランだ。ボランティアでステップも教えている。「僕は楽器はダメなので、ダンスでカントリーミュージックを盛り上げるよ」と語る。

川嶋は永谷のライブハウスの常連客だ。毎週土曜日になると、彼が先生となり、仲間たちと「エレクトリックスライド」、「トッシュプッシュ」、「コパーヘッドロード」といったステップを一緒に踏みながら、ラインダンスを楽しむ。

永谷は、カントリーミュージックを介して日本全国の友人に恵まれた。そのうちの1人が、ブルーグラスのバンド「ハッチャリーズ」のリーダー、冨松正治だ。冨松は大学卒業後、故郷の久留米市に戻り高校の同級生とバンドを結成した。バンジョー、フィドル、ギターを弾きこなす。

ハッチャリーズは40年以上活躍する人気バンドで、ケンタッキー州で開催された国際ブルーグラス音楽祭に参加したこともある。冨松は、「僕たちは、おそらく(国際ブルーグラス音楽祭で演奏した)日本人バンド第1号」で、「素晴らしい経験だった」と言う。インタビュー中には、曲が進むにつれて笑いながら頭上で手を叩いて盛り上がる観客の様子を再現してくれた。シャツにサインを求められたので英語で書き始めると、「ダメ、漢字で!」とお願いされたエピソードも笑顔で語ってくれた。

ハッチャリーズが、カントリーゴールドに招待されたのは2004年のことだ。その時のことを、冨松は懐かしそうに語る。

冨松はカントリーゴールドの常連として長年にわたり出演している。しかし、その一方で、近年は出演できなくなったアーティストもいると、永谷は残念そうに言う。ほとんどの出演者は、70代、80代の高齢で、既に他界している者も多い。永谷は25回目の公演の後、公演を終了することを考えたが、「カントリーミュージックの国際的な音楽祭は数少ない。少なくとも30回までは続ける」と決心した。

カントリーゴールドで演奏するチャーリー永谷&キャンノンボール

カントリーゴールドで演奏するチャーリー永谷&キャンノンボール

永谷は、30年の集大成となる「ファイナルアンコール」に全身全霊を注ぐ。しかし、これが終わりというわけでない。はつらつと歩く姿に、83歳という年齢は感じさせない。今回のカントリーゴールドは永谷にとって最後となるが、彼の伝説に終わりはない。

永谷が取り組んできた草の根レベルでの日米交流への貢献に対して、一般社団法人日米協会は「第3回金子堅太郎賞」の受賞者に彼を選出した。今後も永谷は、熊本市民会館で小規模の屋内音楽祭「カントリーサンシャイン」を続けていく。「生きている限り歌い続け、カントリーミュージックの真髄を分かち合っていく」という約束をこれからも守っていくつもりだ。

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「カントリーゴールド2019 ファイナルアンコール」は、熊本県野外劇場アスペクタ(南阿蘇村)で10月20日に開催される。午前9時開場。詳細はこちらから。