ジョン・C・テイラー 在福岡米国領事館 首席領事

あの日のことを忘れることは決してありません。在札幌米国総領事館のオフィスで仕事をしていると、突然地面が揺れるのを感じました。激しい揺れというよりは、足元に波が打ち寄せているような感覚でした。数分後、テレビで津波警報が発令され、それを見ていた日本人職員の一人が、ここまで大きな津波警報は見たことがないと言っていました。その後、私の目に恐ろしい映像が次々と飛び込んできました。数百キロメートルにおよぶ海岸線に黒い波が押し寄せ、あらゆるものを飲み込んでいく。多くの人が見たあの映像です。

その後の日々は、行方不明になったアメリカ人の捜索と特定作業に追われました。電話やメールでやり取りを行い、書類を探し、所在がわからないアメリカ人を探しました。日本人死者数や行方不明者数とは比べ物になりませんが、2人の若い英語教師が犠牲になったことを知り胸が痛みました。外交官になってから最もつらかった仕事は、アメリカにいる犠牲者の家族にこの悲しい知らせを伝えなければならなかったことでした。

私は広報活動を再開したいとずっと思っていました。しかし一方で、このような危機的状況下では、通常の文化交流プログラムは無意味であり、おそらく不適切なのではとも感じていました。そんな時に、避難所で演奏したというフルート奏者の記事を目にしました。驚いたのは、その記事の写真です。避難所を訪れるほとんどの人が作業服を着ている中、この演奏者はタキシードを着ていたのです。なによりも私の関心を引いたのは、避難者の反応でした。

避難者は、救助や復興と関係のない仕事をする人が自分たちを励まそうとしていることに感動していました。私はクラシック音楽のプロではありませんが、自分にも避難者に有意義な文化プログラムを届けることができるのではと思いました。趣味としてギターをかじったことがあることから、楽譜を探し、1940年代のフォークミュージックから現在までのアメリカのポップミュージックをカバーするプログラムを実施することを思いつきました。

領事館の運転手、柴田さんと一緒に東北地方に向け出発しました。車にはギター、バーベキューグリル、キャンプ用品とガソリンが入った容器を積み込みました。目的地ではレストランもお店もやっていなかったため、途中で青森県の三沢空軍基地に立ち寄り、自分たち用にガソリン、炭、食料を、そしてアメリカ人が大好きなお菓子「スモア」作りに必要なチョコレート、グラハムクラッカー、マシュマロを調達しました。

道路脇に追いやられたポルシェ928(写真提供:ジョン・C・テイラー、在福岡米国領事館)

道路脇に追いやられたポルシェ928(写真提供:ジョン・C・テイラー、在福岡米国領事館)

東北の海岸沿いを走る中、最初は全てが普通に見えました。しかし突然、普通の状態とかけ離れた恐ろしい景色が私たちの前に現われました。陸前高田市に近づくにつれ、風景は一変し、道路脇はがれきの山で覆われていました。まるではっきりとひかれた境界線を越えたような感覚でした。こちら側は私たちが知っているいつもの世界。そして境界線の向こうは、想像を絶する凄まじい光景が広がる世界でした。鮮明に覚えているのが、無残な姿となったポルシェ928。かろうじて車だと認識できる物体が道路脇に追いやられていました。他のがれきと同様に、車は灰色と茶色が混ざった色をし、ゴミとなったその他の所有物とほとんど区別がつかなくなっていました。この車の印象が強烈だったのは、私が高校生の時に流行った映画「卒業白書(原題:Risky Business)」で主演のトム・クルーズが同じ型の車を運転していたからかもしれません。ポルシェはその当時、私の年代の多くの子どもにとってあこがれの車でした。それが目の前でゴミとなっていました。

私たちは、仮設避難所となった小学校に到着しました。そこには数十人の家族が暮らしていました。生活の場は体育館で、私は既に人が集まっている中を緊張しながらステージへと進みました。こんなに多くの人の前で演奏したことはありませんでした。私が今まで演奏した中では一番多い観客数で、私ぐらいの腕の演奏者には見合わない、はるかに多くの人たちが集まっていました。みな礼儀正しく、私の演奏を熱心に聞いてくれました。「テイク・ミー・ホーム・カントリー・ロード」といった往年の名曲を演奏すると、一緒に歌ってくれる人もいました。アンコールでは、坂本九の「上を向いて歩こう」を演奏しました。アメリカでは「スキヤキ」という名前で知られている曲です。

陸前高田市の小学校で演奏するテイラー(写真提供:ジョン・C・テイラー、在福岡米国領事館)

陸前高田市の小学校で演奏するテイラー(写真提供:ジョン・C・テイラー、在福岡米国領事館)

イベントが一番盛り上がったのは、演奏会の後に実施したバーベキューでのスモア作りでしょう。最初、子どもたちが一番喜ぶだろうと思っていましたが、実に多くの大人がスモア作りを楽しんでいたことに驚きました。火の上でマシュマロをあぶり、完璧な焼き色を作ろうとみな夢中になっていました。避難者は、津波後初めて大変な状況であることを忘れ、たとえ数時間であっても他のことに没頭できたと話してくれました。また、福島の原発事故が報道の大部分を占める中、自分たちが忘れられていないことを知りうれしかったと打ち明けてくれました。

北海道に戻る途中、海岸沿いの市町村と避難所もいくつか訪問しました。この地域では宿泊施設がどこも営業していなかったため、私は道路沿いの休憩所の軒下や公園で、そして運転手は車の中で寝起きしました。演奏会に来てくれる人たちにできる限りの敬意を示したい、そして生活必需品を届ける人、電気や水道などライフラインの復旧活動にあたる作業員の人たちと区別できるようにとの思いから、私はスーツとネクタイを着用することにしていました。朝に公園の中の管理事務所で着替え、車の窓に映る自分を見ながらネクタイを締めたこともありました。通常の外交官の出張とは全く状況が違いましたが、私は間もなく快適な我が家に戻ることができます。一方で被災者は、住む場所をいつ、どのような方法で見つけることができるのか全くわからない状況に置かれていました。そのような中でも気丈に振る舞う被災者の姿に頭が下がり、同時に勇気づけられました。

私は今まで多くの広報外交活動に携わってきました。予算を潤沢に使い、職員を動員し、多くの人と交流し、著名人と働くこともありました。しかし、この東北でのアマチュア演奏会や柴田さんとの「キャンプ」出張ほど、個人的にも外交官としても満ち足りた仕事はなかったような気がします。その場にただいることのほうが、現場で何か話したり、行動したりするよりもずっと大事なときもあると学びました。あれから10年。勇気と不屈の強い気持ちを教えてくれた東北の皆さんに感謝しています。「がんばれ東北!」

***

ジョン・C・テイラーは、在福岡米国領事館で首席領事を務める。在札幌米国総領事館にて、2009年から2012年まで広報文化交流担当領事として勤務。海外では、スウェーデン、インドネシア、アフガニスタン、ジンバブエでの勤務経験がある。札幌在任中は、東日本大震災と津波の前後に、被害を受けた沿岸のコミュニティーも含め、東北を何度となく訪れた。いくつかの避難所では、被災後初めてとなる文化イベントを開催した。

バナーイメージ:陸前高田市の避難所でマシュマロあぶりを楽しむ人々(写真提供:ジョン・C・テイラー、在福岡米国領事館)