クリストファー・クウェード 米国大使館報道官

2011年3月11日(金)午後2時45分。東京の在日米国大使館のオフィスで同僚と私は、歴史ある大使公邸の大広間で当日夜に予定されていたイベントの準備に1日の大半を費やしていました。北澤俊美防衛大臣(当時)をはじめ日米両国の軍人・外交官を代表する豪華なゲストがスピーチを行うそのイベントで、半世紀に及ぶ日米同盟を祝うことになっていました。そのわずか1分後に計り知れない悲劇が日本に起こるとは、誰も予想していませんでした。

午後2時46分、全てが変わりました。

揺れは決して終わることがないように思われました。大使館内では、天井のパネルが落ち、棚が倒れ、驚き呆然とした職員は机の下に避難しました。ようやく揺れが収まった後に全員が屋外に避難し、建物正面の駐車場に集合しました。ジョン・ルース大使(当時)がメガホンで職員に話すのを聞いている最中に最初の余震が起こり、10階建ての大使館が危険なほど前後に揺れるのを目にしました。現実とは思えない光景でした。

Members of the U.S. Embassy in Tokyo gather in front of the Embassy just after the earthquake struck on March 11, 2011. Ambassador Roos can be seen near the center of the photo, holding a bullhorn. (Photo Credit: Lori Shoemaker, U.S. Embassy)

2011年3月11日の地震発生直後、大使館前に集まった在日米国大使館関係者。写真中央付近でメガホンを手にしているのはルース大使(写真提供:ロリ・シューメーカー、米国大使館)

間もなく東北からの最初のテレビ映像が流れ、「トリプル災害」がいかに甚大かを実感しました。日本はマグニチュード9.0という国内観測史上最大の地震に見舞われ、壊滅的な津波は2万人近くの命を奪い、数十万棟の建物を破壊しました。そして機能不全となった福島第一原発で悪夢のような事故が発生しました。当時の菅直人首相が、「戦後日本で最も深刻な災難」と表現したのも不思議ではありません。

Tsunami debris in Miyagi Prefecture, March 23, 2011. (Photo Credit: Ben Chang, U.S. Embassy)

津波で破壊された建物のがれき。宮城県にて2011年3月23日撮影(写真提供:ベン・チャン、米国大使館)

東日本大震災は、それを経験した人たちにとっては決して忘れられない出来事でしょう。しかし、被害やがれき、衝撃や喪失の暗い記憶とともに、友情と支援の記憶も残されています。

例えば、3月12日には早くもロサンゼルス郡とバージニア州フェアファックス郡の捜索救助専門家チームが日本に到着し始め、津波に流された数千人の行方不明者を見つけるために、地元当局の懸命な取り組みを支援しました。この当初の支援は、米軍が日本の自衛隊と手を携えて「トモダチ作戦」に参加したことで強化され、今日に至るまで、日米両軍間の単独作戦としては最大規模となっています。2万4000人以上の米陸軍、海軍、空軍、海兵隊の兵士が、初期対応にあたる緊急救援隊が容易に到達できなかった東北地方に、食料や水、その他の必需品を届けました。ロバート・ウィラード米太平洋軍司令官は、震災のおよそ1週間後に日本を訪れて救援活動を指揮し、米軍関係者が援助を必要とする同盟国への支援に並々ならぬ関心を持っていることを示しました。

Commander of U.S. Pacific Command, Admiral Robert Willard, meets with Japanese Self-Defense Force officers at a shelter in Miyagi Prefecture, March 23, 2011. (Photo Credit: Ben Chang, U.S. Embassy)

宮城県の避難所で自衛隊員とミーティング中のロバート・ウィラード米太平洋軍司令官。2011年3月23日(写真提供:ベン・チャン、米国大使館)

他にも多くの事例が、両国の深い友情の絆を示しています。ルース大使は何度も東北の被災地を訪問し、悲しみに暮れる市民に慰めの言葉をかけ支援を提供しました。大使はこのような活動の中から、特に陸前高田市の戸羽太市長との交流をきっかけに、「TOMODACHIイニシアチブ」として知られる官民パートナーシップを立ち上げたのです。TOMODACHIは、文化、教育、リーダーシップの交流を通じ、次世代の日本人と米国人の絆を育むことを目的としています。その後の10年間で、太平洋の両側から9000人以上の若者が320以上のTOMODACHIプログラムに参加しています。

東北を助けたいという強い気持ちを抱いたのは政府機関だけではありません。民間の米国人もできる限りの方法で日本に手を差し伸べました。例えば、全米各地の日米協会は1800万ドル以上の寄付金を集め東北地方に送りました。

中でも特に感動的だったのは、2011年11月、市民に希望の光を与えるため大船渡市を訪れた米国の伝説的野球選手カル・リプケン・ジュニア氏の姿を目にしたことです。わずか8カ月前には津波で水浸しになったグラウンドで、地元の若い選手たちと試合に参加し、人生が180度変わってしまった子どもたちの笑顔を見ることは、何よりも特別な体験でした。

では、あの悲劇から10年が経過した今、どのような教訓を得ることができるのでしょう? 一つには、世界が評価する日本の有名な忍耐力―「我慢」―が新たなレベルに到達したことが挙げられます。もう一つは、日米同盟がこれまで以上に強固だと証明されたことです。10年前のあの夜に予定されていた祝賀行事は中止せざるを得なかったにもかかわらず、日米同盟は成長し進化し続けています。両国は現在、インド太平洋水路の航行の自由の確保から、北朝鮮の安全保障上の脅威への対処、そしてサイバーおよび宇宙空間における二国間協力の拡大に至るまで、揺るぎなく連携しています。

しかし震災から10年経った今、私にとって重要な教訓は、日米同盟は単なる便宜的な結びつきではないということです。それは、2011年3月の暗黒時に最も輝いていた、両国民の間に共通する根本的な価値観、互いの尊重、そして愛情に深く根ざしています。東日本大震災後の数日、数週間、数カ月、数年の間で、何千人もの両国市民の共同作業は、同盟の真の強さを照らし出したのです。

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クリストファー・クウェードは、2020年7月から在日米国大使館報道官として在職。2010年から2013年まで東京で勤務。外交官として、アフガニスタン、スペイン、オマーン、韓国などの勤務を経験。

バナーイメージ: 2011年11月14日、大船渡市で子どもたちと一緒にグラウンドに立つカル・リプケン・ジュニア氏(写真提供:クリストファー・クウェード、米国大使館)