ジェローム・ライアン

共和、民主両党の大統領の下で駐日米国大使を務めたマイク・マンスフィールド(任期:1977~1988年)は、かつて日米同盟を「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」と評した。この有名な発言は信条となり、日米同盟関係を体現した条約は過去のどの条約よりも長く存続し、今なお日米両国に恩恵をもたらしている。

1960年1月19日、当時の岸信介首相とクリスチャン・ハーター国務長官が「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」に署名した。この条約は日本が攻撃された場合、日本を守るため、米国が日本に軍隊を配備すると定めた。また、「日本国の安全に寄与し、ならびに国際の平和および安全の維持に寄与するため」、日本の施政下にある領域内で米軍が港湾および軍事施設を使用できるとし、米国が直接の戦闘活動を開始する前に日本と協議することも約束した。60年を経た今、日本に駐留する米軍兵士は5万人を超える。日本の防衛と地域の平和・安定を維持しようとする米国の決意の表れである。

アイゼンハワー大統領が見守る中、日米安全保障条約に署名する岸信介首相。1960年1月19日、ワシントンDC (AP Photo)

アイゼンハワー大統領が見守る中、日米安全保障条約に署名する岸信介首相。1960年1月19日、ワシントンDC (AP Photo)

日本にとって日米同盟は、国家の独立と国際舞台への復帰の象徴であった。日本は、比較的少ない防衛費で安全保障を手に入れ、それが地域における他国の領土拡張の野心を防ぐ効果的な防衛手段となった。日本はまた、米国の核の傘下で安全を保証されていたため、財源を経済復興に充てることもできた。日本の政策決定者や産業界は、当時世界の国内総生産(GDP)の30%近くを占めていた巨大な米国市場への参入を期待した。一方、米国財界の指導者たちは、日米同盟を広く支持し、域内の経済成長力を利用しようとした。現在、日米のビジネス関係はかつてないほど強い。これは両国が先ごろ締結した2国間貿易協定からも明らかだ。対日外国直接投資では、米国は依然として最大の投資国である。

日米貿易協定の署名前に、安倍首相と握手を交わすトランプ大統領。2019年にニューヨークで行われた国連総会の会場にて (AP Photo/Evan Vucci)

日米貿易協定の署名前に、安倍首相と握手を交わすトランプ大統領。2019年にニューヨークで行われた国連総会会場にて (AP Photo/Evan Vucci)

日米同盟は、経済面・安全保障面において、双方に多大な恩恵を与え続けている。より広範の意味においては、その規模を考えると、世界全体に安定をもたらしている。

日米は条約締結直後から経済および安全保障における関係を深めた。その一方で、文化・教育分野の相互交流拡大からも恩恵も受けた。日本で学ぶ米国人留学生の数は着実に増えている。1952年、日本がフルブライト・プログラムの対象国となると、大勢の日本の若い知識人が同プログラムを活用し米国で学術研究に携わるようになった。非政府組織(NGO)、財団、そして大学も、文化・教育交流や民間レベルの交流を拡大した。

いかなる同盟もその強さが真に試されるのは、危機や軍事紛争の時であることは言うまでもない。日米同盟の場合は、2011年3月11日に発生した東日本大震災である。日本が地震、津波、原発事故という3重苦に襲われた時、この同盟の強さは1952年には想像もしなかった形で試された。米軍と自衛隊による前例のない規模の合同人道救援活動は、日米同盟が盤石であり、軍事的有事以外でも大きな価値を持つことを世界中の人々に示した。当時のオバマ大統領は震災直後、「この大きな試練の時に、米国は日本国民を支援する用意ができている。両国の友好および同盟関係は揺るぎなく、この悲劇を乗り越えようとする日本国民と共にあろうとする私たちの決意をさらに強めるものである」と述べた。

宮城県気仙沼市の赤ちゃんにテディベアを手渡す米海軍のヘリコプター・パイロット。2011年の東日本大震災後に実施された「トモダチ作戦」では、地震や津波の被災者に米軍から援助物資が配給された (AP Photo/Eugene Hoshiko)

宮城県気仙沼市の赤ちゃんにテディベアを手渡す米海軍のヘリコプター・パイロット。2011年の東日本大震災後に実施された「トモダチ作戦」では、地震や津波の被災者に米軍から援助物資が配給された (AP Photo/Eugene Hoshiko)

これまで何十年もの間、日米同盟は目まぐるしく変わる地域および世界各地の安全保障課題に応じて変化してきた。地球規模の問題で日本の役割が拡大するにつれ、日米同盟も拡大した。1990~1991年の湾岸戦争では、日本の自動車運搬船が米国の装備品を湾岸地域に輸送し、日本は増税まで行い130億ドル近い戦費を拠出した。憲法上の制約で日本は湾岸戦争に自衛隊を派遣することができなかった。しかし1992年、国連の指揮下であれば自衛隊の紛争地域への派遣を将来的に可能にする「国連平和維持活動等に対する協力法案(PKO法案)」を可決した。以来、自衛隊はカンボジアや他地域での平和維持活動に携わってきた。さらにアフガニスタンで戦う連合軍に燃料を補給するため、海上自衛隊の補給艦をインド洋に配備した。

21世紀に入っても、日米安全保障条約によって成文化されたこの地域における日米の指導的立場は、他の域内諸国からも支持された。当初、冷戦終結直後の高揚感の中、兵力を大幅に削減することが検討されたが、日米がこの地域に安定した軍事態勢を維持する必要性が次第に明らかになり、実際に削減されることはなかった。この地域の最も差し迫った脅威は、核兵器で域内を脅かし続ける北朝鮮であった。2015年、日本の国会は日米同盟のさらなる強化に向け、集団的自衛権の行使を容認する法案を可決した。これにより、攻撃を受けた米軍への事実上の支援が可能となった。

日米両国の指導者は、日米安全保障同盟はインド太平洋地域の平和と安定の礎であると明確に表明してきた。こうした発言は日米両国の兵力の透明性と相まって、引き続き日本の国土を守り、北朝鮮のような危険な近隣諸国を抑止する上で役に立っている。日米同盟はまた、米国が今後も北東アジアの長期的安定の維持に尽力していくという安心感を他のアジア諸国に与える役割も果たしている。過去60年、日米安全保障条約は時の試練に耐えてきた。日米安全保障協力体制は、冷戦時のソビエトの拡大主義に決して屈することはなかった。そして冷戦時代から抜け出した日米は、もはや2極体制という言葉では明確に定義できないあいまいな世界で日米同盟がいかに重要であるかを痛感した。域内の安全保障課題が目まぐるしく変わる今日、日米同盟はかつてないほど強く重要なものとなった。

米海兵隊の第3海兵遠征軍と敬礼を交わす陸上自衛隊水陸機動団。「ヤマサクラ-77」合同訓練の閉会式での一コマ。2019年12月、沖縄県うるま市のキャンプ・コートニーにて撮影

米海兵隊の第3海兵遠征軍と敬礼を交わす陸上自衛隊水陸機動団。「ヤマサクラ-77」合同訓練の閉会式での一コマ。2019年12月、沖縄県うるま市のキャンプ・コートニーにて

広く見れば、日米同盟は日米が共有する民主主義、自由市場資本主義、そして普遍的な人権に対するビジョンと決意を通して、インド太平洋地域に安定、平和、繁栄をもたらすものだ。軍事的有事の有無にかかわらず、米軍と自衛隊が相互に強化し合う関係は、これからも域内の侵略を抑止し続ける。そうした枠組みの中で、日本、米国、そして他のアジア諸国は、特に自由貿易や通商など、安全な環境が提供する全ての恩恵を自由に享受している。元米国国防次官補のジョセフ・ナイは1995年、「安全保障は酸素のようなものであり、必要になるまでその存在を意識することはあまりない」と簡潔に表した。民主主義国にとって、危機や紛争を防ぐ予防策を平時に取ることは決して容易ではない。しかし、日米同盟の存在自体が多くの侵略行為を抑止し、多くの安全保障上の危機を未然に防いできたことは明らかだ。日米同盟は今後も、日々この役割を果たし続けていく。

バナーイメージ:ホワイトハウスで話し合う日米両国の政府高官。前列左から、クリスチャン・ハーター国務長官、ドワイト・アイゼンハワー大統領、岸信介首相、藤山愛一郎外務大臣。後列左から、ジェイムズ・グラハム・パーソンズ国務次官補、駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世、駐米日本大使・朝海浩一郎。1960年1月19日 (AP Photo)

Jerome Ryanジェローム・ライアン (Emmett "Jerome" Ryan)――在日米国大使館政治部で1等書記官を務める。2004年に米国務省入省。東アジア地域を専門とする。駐大阪・神戸米国総領事館、在韓国米国大使館、在香港総領事館での勤務経験があり、政治・経済・金融問題に携わった。