「バルカン半島での大虐殺の終結を促し、『女性に対する暴力法』の成立に貢献したことが、私の政治家としての人生で最も誇らしい瞬間だと思う」。 これは、ジョゼフ・R・バイデン副大統領(当時上院議員)が2007年に出版した自伝「Promises to Keep: On Life and Politics(守るべき約束:人生と政治について)」の1節である。

民主党全国大会でのジョゼフ・バイデン副大統領候補(左)とバラク・オバマ大統領候補(2008年8月28日) © AP Images

民主党全国大会でのジョゼフ・バイデン副大統領候補(左)とバラク・オバマ大統領候補(2008年8月28日) © AP Images

自らをこのように評価するバイデンを理解するための鍵は、その生い立ちにある。バイデンはアイルランド系カトリック教徒で、1942年にペンシル ベニア州北東部にある、労働者階級が多く住む都市スクラントンの、あまり裕福でない家庭に生まれた。母親は専業主婦で、父親は自動車販売の仕事をしてい た。バイデンが10歳のときに一家はデラウェア州に移った。バイデンはニューヨーク州のシラキュース大学の法科大学院を卒業したが、家族の中で大学の学位 を取得したのは彼が最初だった。

バイデンの政界における転換期は、1972年に29歳で初めてデラウェア州から連邦上院議員に選出された時だった。上院議員就任の宣誓の数週間前 に、妻と娘を自動車事故で失ったのである。同じくこの事故に巻き込まれた2人の幼い息子は、命を取り留めたものの重傷を負った(バイデンは1977年に再 婚し、娘を1人もうけた)。1988年にも、さらなる不幸に見舞われた。脳に2カ所、命にかかわる可能性がある動脈瘤(りゅう)があると診断されたのだ。 回復には時間がかかり、苦痛が伴った。議会を7カ月欠席したが、その間ほとんど寝た切りの状態だった。

バイデンが上院議員時代に残した投票記録は、ほとんどがリベラルなものである。共和党議員らにも好感を持たれ、党派を超えた活動をしていたが、大 方は民主党を支持してきた。例えば、ワシントン・ポスト紙によれば、上院議員としての最後の2年間にバイデンが投じた票のうち、96.6%は民主党支持の 投票だった。マイケル・ゴードンは、ニューヨーク・タイムズ紙上でバイデンを評して「リベラルな考え方を持った国際主義者として広く知られている。外交の 必要性を強調したが、時には軍事圧力を使うことも辞さなかった」と書いた。

Members of the Senate Judiciary Committee hold discussions during a break in the confirmation hearings for William Rehnquist, Aug. 1, 1986. From left to right: Sen. Strom Thurmond, R-S.C., closest to microphone; Sen. Edward Kennedy, D-Mass., standing at center; Sen. Joseph Biden, D-Del. seated, right; and Sen. Howard Metzenbaum, D-Ohio, standing at far right. Others are unidentified. (AP Photo/Lana Harris)

バイデン上院議員(着席右端)と上院司法委員会の委員たち(1986年8月) © AP Images

バイデンは、上院での最初の数年間、国内問題に的を絞り、特に市民の自由、法の執行、公民権に力を注いだ。1975年には司法委員会の委員とな り、1987年から1995年まで同委員会の委員長を務めた。この時期の立法面における彼の最も意義のある功績は、彼が起草した画期的な「女性に対する暴 力法」の制定(1994年)である。この法律では、性に起因する犯罪に取り組むために、連邦資金から数十億ドルを拠出している。しかし時として型通りのリ ベラル的思考に同調しないこともあった。一例を挙げると、薬物関連の犯罪に対してより厳しい量刑を科す法律を強く支持する立場を取った。また、公民権を推 進する姿勢を強く打ち出す一方で、人種融和を促すための強制バス通学(編集部注:白人と黒人の生徒を同じ学校で学ばせるために、学区を越えて生徒をバスで 通学させること)に反対した。

外交姿勢
バイデンは上院議員として、外交問題で活躍した。1975年から、大きな影響力を持つ上院外交委員会の委員となり、2001年から2003年まで 同委員会の委員長を務めた。さらに2007年に再び同委員長になり2009年まで務めることになっていた。2004年に上院議員に選出されたバラク・オバ マは外交委員に任命された。そして共に働いたことによりバイデンをよく知るようになった。オバマは、かつてバイデンが委員長であったヨーロッパ小委員会の 委員長を務めた。

しかしながら、ある重要な外交政策において、オバマとバイデンは意見を異にした。米国によるイラク侵攻を承認する上院の最終決議案につい てバイデンは賛成票を投じたが、オバマは(当時まだ上院議員ではなかったが)反対を表明したのである。しかし、最終決議案の投票の前に、バイデンはインディアナ州選出の共和党リチャード・ルーガー上院議員と共に、外交努力を尽くした後にのみ軍事行 動を承認する決議案を採択させようとした。この決議案が否決された後、バイデンは戦争を承認する法案に賛成票を投じたが、ブッシュ政権がイラク侵攻に先立 ち、さらなる承認を得なければならないとする修正案には反対票を投じた。2005年に、バイデンは、イラク侵攻に賛成票を投じたことを「間違い」だったと 表明した。オバマがバイデンを副大統領候補に指名した後、イリノイ州スプリングフィールドで行った共同会見で、オバマはバイデンを「外交政策の専門家であ り、その心情と価値観は中流階級にしっかりと根差している」と評した。また、「大きな影響力を持つ、ブッシュ‐マケイン外交の批評家であるとともに、テロ リストとの戦いを新たな方向へ導き、イラク戦争を責任ある終結へと向かわせることを支持する発言者である」とも語った。

パキスタンのイスラマバードで会見する(左から)ジョン・ケリー、ジョゼフ・バイデン、チャールズ・ヘーゲルの各上院議員(2008年2月) © AP Images

パキスタンのイスラマバードで会見する(左から)ジョン・ケリー、ジョゼフ・バイデン、チャールズ・ヘーゲルの各上院議員(2008年2月) © AP Images

上院外交委員時代には、バイデンは広く世界各国を訪れ、多くの外国の首脳のみならず、ナンバーツーや側近、さらには反対派勢力の指導者とも親密な 関係を築いた。手がけた重要問題には、軍縮、核拡散、北大西洋条約機構(NATO)の拡大、超大国の対立、そして米国と第3世界との関係などがある。また グローバル・エイズ・イニシアチブを強力に推進するとともに、炭素など温暖化ガスの排出を抑制するための国際的な取り組みを早くから支持してきた(20年 前に初めて、気候変動対策法を起草している)。また、自由貿易協定をおおむね支持してきた。長く上院議員を務めているバイデンは、特にアフリカ問題にも深 い関心を寄せている。南アフリカのアパルトヘイト制度には早くから批判的であった。ダルフール問題に関しては、殺りくに歯止めをかけるために、より厳しい 行動を取ることを支持してきた。

バイデンの最も意義のある外交政策上の功績は、1990年代にバルカン半島で起きた紛争を解決するために尽力したことである、というのが大筋の見 方である。セルビア人指導者のスロボダン・ミロシェビッチに対抗して行動を起こすようクリントン政権に強く働きかけたのが、バイデンだったと言われてい る。スプリングフィールドの会見で、オバマはバイデンが「バルカン半島での殺りくを終結するための政策の策定に貢献した」と語った。バイデンは、とりわけ ボスニアのイスラム教徒に対する民族浄化を阻止するために介入すべきであることを強く訴えた。その後は、セルビアをコソボから撤退させるためのNATO軍 の空爆を支持した。

バイデンは1988年と2008年の2回、大統領に立候補したが、いずれも撤退した。オバマ陣営によると、バイデンを副大統領候補に選んだ理由は 数多くあるが、特に彼の外交政策に関する専門知識と経験を挙げた。バイデンは米国史上初のカトリック系副大統領であり、また初めてのデラウェア州出身の副 大統領でもある。