早川達夫 アメリカ大使館 広報・文化交流部

アメリカの外交団

アメリカという国を代表する外交官にはさまざまな背景を持つ人材が登用されており、世界中の大使館や領事館で実にさまざまな職に就いています。大使館には数多くの連邦政府が職員を派遣しており、国務省だけでなく、商務省、国土安全保障省、農務省などがオフィスを構えています。おそらく皆さんに一番馴染みのある大使館の仕事はビザなどの領事関係でしょうが、大使館の業務は多岐にわたり、医師や獣医師、会計や法律の専門家、ITスペシャリストなども勤務しています。その中から今回は、ワリード・ザファール報道官補にインタビューを行い、外交官を目指した理由と現在の業務について話を聞きました。

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生い立ち

「私はアフガニスタンのカブールで生まれました。当時アフガニスタンは、ソ連軍の占領下にありました。まだ幼児だった頃に母が火事で命を落としたため、祖母が私を育ててくれました。その後ソ連軍が撤退してから激しい内戦が始まり、私たちは隣国のパキスタンへ逃れたのです。当時私はまだ4才くらいだったと思います。やがて私達はアメリカへ移住し、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊の小さな島、アラメダ郡に落ち着きました。アラメダ郡は多民族で構成され、多くのフィリピン系やエチオピア系アメリカ人など、さまざまな文化的背景を持った人たちに囲まれて育ちました」

カリフォルニア移住後のザファール。祖母とともに

カリフォルニア移住後のザファール。祖母とともに

誕生日は「1月1日」

「私は祖母と伯父に育ててもらいました。私がアメリカに移住した時、伯父はまだ20代で家族を養うために必死に働いていました。伯父は仕事が忙しく、祖母は英語が話せません。そのため、先生や友人の親たちなど地域の助けを借りつつも、学校関係のことには全て自分で対応しなければなりませんでした。例えば、学校の保護者会では祖母のために通訳をしました。闇夜にまぎれてアフガニスタンから逃れたため、私の出生証明書のことは誰の頭にもありませんでした。探して持ち出すことは可能であったかもしれませんが。そのため、私には出生証明書がありません。本当の誕生日は知らないので、便宜的に『1月1日生まれ』にしています。同じような理由で、アメリカの移民には『元日生まれ』が多いのです」

ザファールはカリフォルニア州アラメダ郡で育った

ザファールはカリフォルニア州アラメダ郡で育った

外交官になろうと思った動機

「祖母は私に機会を与えようと、ありとあらゆる手を尽くしました。それが私の成功へのモチベーションとなりました。問題を起こさず、祖母の犠牲に報いようと努めました。私のことをよく思って欲しかったのです。長じるにつれて、祖母が私を誇りに思うたびに大きな喜びを感じるようになりました。私が何か良い行いをすると、親戚が祖母を褒めるのです。私が外交官になった頃、祖母は消耗性の発作に苦しんでいました。既に以前のような意思疎通はできなくなっていましたが、それでも親戚は私をここまで育て上げた祖母を褒め続けていました」

「私は(食料費補助対策である)食料切符制度と賃貸住宅プログラムを利用して育ちました。子どもの頃は、政府から援助を受けていることをとても恥ずかしく思っていました。特に、スーパーマーケットで食料切符を渡して『買い物』するときはいたたまれない気持ちになりました。もちろん、このような政府の制度を利用することで恥じる必要はありません。ただこのことがきっかけとなり、将来は公職について、多くを与えてくれたアメリカという国に恩返しをしたいと考えるようになりました。子どもたちと話す機会があるとこう伝えています。『アメリカで成功するには、最初からエリートである必要はないんだよ』と」

「アメリカには依然として不平等が存在します。社会的なもの、政治的なもの、そして経済的なものです。多くの人たちが、制度的なものを含む困難に直面しています。誰もが簡単に見つけられるものではありませんが、それでもアメリカには機会や成功への道があります。たとえ内戦から逃れて食料切符制度で育った移民でも、世界を舞台に活躍する外交官になれるのです。そのこと自体がアメリカの理想を体現していると私には思えます」

支えとなった“Students Rising Above”の存在

「高校生の頃、先生が私を“Students Rising Above”に推薦してくれました。これは、家族の中で初めて大学進学を希望する学生に対して、相談や助言を行い、キャリアカウンセリングや財政援助を実施する非営利のプログラムです。設立者は、ウェンディ・トクダという日系アメリカ人のジャーナリストです。このプログラムの選考を通過した後で、地元のテレビ局が取材のために学校を訪れ、私もインタビューを受けました。私のストーリーは、既に話したように、戦乱のアフガニスタンから逃れて、意志の強い祖母に育てられたというものです。私はこの年にプログラムに選ばれたわずか8名のうちの1人になることができました。その後プログラムは寛大な篤志家のおかげで拡大を続け、現在では数百人の学生を支援しています。当時メンターだった人たちとは、今でも頻繁に連絡を取り合っています」

ターニングポイント

「大学4年の時にキャンパスで、外交官が主催するセミナーに参加する機会がありました。彼女は採用活動に携わっており、全米の大学を回って未来の外交官をリクルートしていたのです。この時まで、外交官というキャリアは手の届かないものだと考えていましたが、その道は誰に対しても開かれていると聞いて驚きました。そこで、外交官試験に挑戦してみようと思ったのです。競争は厳しく、何度も不合格となりました。本当に高い壁に感じられましたが、決して夢を諦めませんでした。そしてついに、その努力が報われたのです」

母国への赴任

「2番目の赴任地は母国のアフガニスタンでした。カブールのアメリカ大使館勤務となったのです。それは、私が生まれた土地からほんの目と鼻の先にありました。記憶の中にだけ存在していたようなカブールに戻る。夢を見ているような経験でした。カブールの記憶はおぼろげで、わずかに知っていたことと言えば、祖母が話してくれたことだけだったのです」

「アフガニスタンでの任務はやりがいがあると同時に辛いものでもありました。ダリ―語が話せたおかげで、現地職員とは他の外交官ができないコミュニケーションをとることができました。一方で、悲惨な紛争を目にすると深い悲しみに襲われました。私の家族が逃げ出す元となった紛争はまだ続いており、私の周囲の人たちは疲れ果てていたのです」

報道官補の仕事

「東京のアメリカ大使館は規模が大きく、多忙を極めています。その中心にあるのが、私が働く報道室で、日本メディアの活発な活動に対応したものとなっています。日本の皆さんにお届けしたいアメリカのストーリーは常にあるのですが、私の一番のお気に入りは、東京オリンピック・パラリンピックに向けた『Go for Gold』キャンペーンでの学校訪問です。その際は、まだ拙いのですが頑張って日本語でプレゼンすることを心がけています。新型コロナウイルス感染症が流行する前は、世界でもよく知られている『給食』にも挑戦してみました」

コロナ禍で「Go for Gold」プログラムはバーチャル形式に移行した。都立小岩高校の生徒にオンラインでプレゼンを行うザファール

コロナ禍で「Go for Gold」プログラムはバーチャル形式に移行した。都立小岩高校の生徒にオンラインでプレゼンを行うザファール

外交官として

「ボランティアと奉仕。これらはアメリカの精神の大きな根幹をなしています。祖母の無私無欲の奉仕のおかげで今の私があるのですが、それと同時に、メンターを務め、私を導いてくれた多くの人たちの寛大さにも同じくらい感謝しています。彼らにはそれをしなければいけない理由などなく、ただ周りに恩返しをしたいと思う善き人々だったのです。そして今度は私の番です。公僕という仕事を通して、私が受けた恩を今度は別の誰かに送るつもりです」

学校訪問では給食にも挑戦

学校訪問では給食にも挑戦

バナーイメージ: ワリード・ザファール報道官補。アメリカンフットボール日本社会人選手権「Japan X Bowl 2020」の会場にて