櫻井沙樹 在札幌米国総領事館 広報・文化交流部インターン

2011年3月11日、午後2時46分。私が住んでいた宮城県は突如大きな揺れに襲われました。当時は小学校5年生でした。下校しようと校舎を出たその時、今までにない揺れを感じました。ガラス扉の前にいた私は本能的に危険を感じ、とっさに校庭の中心へと駆け出しました。緊急地震速報の警報音が鳴り響き、次第に強くなる揺れ。立っていられず、しゃがみこみ、永遠に続くかと思うくらいの長い揺れの中、ただただそれが収まるのを待つしかありませんでした。余震が続き、雪が舞い、寒さと恐怖で震え、何が起きたのか瞬時には理解できませんでした。泣き出してしまう同級生や下級生もいました。ラジオを聞いた私は耳を疑いました。10メートル超の津波が予想され、東北の太平洋沿岸部には大津波警報が出ていたのです。ライフラインが止まって情報もわずかしか得られない中、カーナビのテレビで目にしたのは、津波からの避難の呼びかけと、仙台空港への第一波襲来のライブ映像でした。祖母が当時住んでいたのは空港付近の沿岸地域でした。映像では私が知っている場所にも水が押し寄せ、車や建物が次々と押し流されていきます。祖母が避難し無事であることを祈るだけでしたが、その後連絡が付かず、安否は分からないままでした。

津波の被害を受けた後も残った仙台空港付近のクロマツの防潮林。2011年3月27日(著者提供)

津波の被害を受けた後も残った仙台空港付近のクロマツの防潮林。2011年3月27日(著者提供)

当時、アメリカ軍が被災地を支援するために行ったのがトモダチ作戦です。災害救助、捜索救難、復興支援などが行われましたが、象徴的な活動の一つが仙台空港の復旧です。これには数カ月かかると見られていましたが、アメリカ軍と自衛隊の連携により復旧が進められ、震災から5日後にはアメリカ軍輸送機の着陸が可能になりました。同年8月には現在のアメリカ大統領ジョー・バイデン氏も仙台空港の視察に訪れています。

沿岸地域への道路が瓦礫で寸断される中、仙台空港の復旧には大きな意味がありました。空港の復旧は物資や人員を運ぶ拠点の復旧を意味します。重機の搬入が可能になり、捜索や救援活動、瓦礫撤去、食料輸送が進みました。

私はそのニュースを見た時、希望の光のように感じました。まだ行方不明だった祖母が見つかるかもしれないと。

祖母の遺体が見つかったのは仙台空港復旧後のことでした。行方不明者が多くいる中、祖母が家族のもとに帰ってきて、最後のお別れをいうことができたのは本当に幸せだったと思います。

震災後に祖母の家の跡地を訪れたのは、遺体が見つかった後でした。そこは瓦礫が高く積まれ、変わり果てた状態でした。一方で、路上の瓦礫は車が通行可能な程度には取り除かれていて、懸命な活動の痕跡を見ることができました。実際にその状況を目にすると、被害の甚大さを実感するとともに、救援・救助に携わった方々への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

道のがれき撤去が進む宮城県名取市北釜地区。2011年3月27日(著者提供)

道のがれき撤去が進む宮城県名取市北釜地区。2011年3月27日(著者提供)

震災後は被災地への支援の輪が広がりました。日系アメリカ人で宮城在住の鈴木タケノさんに、当時の状況とその後の復興についてお話をお聞きしました。鈴木さんは震災前から宮城県庁に勤務されており、現在も国際交流員を続けています。

鈴木さんは震災発生当時、県庁の13階で仕事をしていました。揺れの直後は家族の安否が気に掛かりましたが、落着きを取り戻した後はJETプログラムのアメリカ人メンバーと連絡を取り合い、互いに励まし合いました。未体験の規模の災害で、誰もが不安でした。そのような状況では、ただ知り合いと話すだけでも励ましになったといいます。

その後行方不明者の捜索に関わる仕事で仙台空港を訪れる機会があり、トモダチ作戦を実際に目にしました。母国の軍がパートナーとして自衛隊と協力しているのを目の当たりにし、誇らしい気持ちが湧き上がってきたそうです。

仙台空港のエプロンで泥を掻き出す米空軍第320特殊戦術中隊の隊員。2011年3月16日(米国防総省提供)

仙台空港のエプロンで泥を掻き出す米空軍第320特殊戦術中隊の隊員。2011年3月16日(米国防総省提供)

また、鈴木さんのところには、宮城県の姉妹州であるデラウェアの仲間をはじめ、アメリカの多くの仲間から支援の申し出がありました。支援者の存在は本当に心強かったと鈴木さんは話します。物理的な支援はもちろんですが、「私たちは東北と共にあります」と言ってもらえることが、自身を含めた被災地の人々とってうれしいことだったのです。

その後アメリカへの県職員の訪問団に加わり、支援への感謝を伝えることができました。現地では、「何か援助できないか」「みんな無事で本当によかった」「いつも君たちのことを考えている」と、温かい言葉をかけられました。これらの多くの人々との出会いが、希望と勇気、そして前に進むエネルギーになったと鈴木さんは語ります。

震災から11年が経った今の思いについてもお聞きしました。「皆さんの支援で復興が進み、宮城の素晴らしさをアメリカの皆さんにお伝えすることもできました。これは、私にとって大きな喜びです。アメリカが迅速に日本の支援に乗り出したことを誇りに思うと同時に、日米両国の皆さんからの支援に心から感謝しています。中には、今でも募金活動を続けている人たちもいます。宮城に住むアメリカ人としてこれからも、長年にわたって築いてきたアメリカと宮城の友好関係に貢献できるよう、最善を尽くしたいと思っています」。鈴木さんはこう話してくれました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を見学するラーム・エマニュエル駐日米国大使。2022年3月10日(米国大使館提供)

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を見学するラーム・エマニュエル駐日米国大使。2022年3月10日(米国大使館提供)

東北の太平洋沿岸地域には震災の爪痕が残る一方で、復興は順調に進んでいます。いま私たちが被災地から伝えたいことは、支援してくださった方々への感謝です。あの震災は簡単に忘れられるものではなく、忘れて良いものでもありません。被災地では、震災の記憶と教訓を後世に伝えるための取り組みも行われています。昨年3月には、宮城県に気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が開館しました。震災について学び考える場所が提供され、当時の教訓を生かした防災教育が行われています。3月10日にはエマニュエル駐日米国大使が訪問し、職員の説明に耳を傾けました。その後大使は、気仙沼復興祈念公園を訪れ、献花を行いました。震災を通じて生まれた支援の輪は、形を変えながら今も生き続けています。そしてこれからも日米の深い絆が続いていくことを願っています。

バナーイメージ:2012年1月12日、大島小学校を訪問し、子どもたちに別れを告げるピーター・J・タレリ少将。30人近くの米海兵隊員が仙台空港と大島を訪れ、日本側関係者と会談したほか、震災以降の復興状況を確認した(米国防総省提供)