1959年当時のリヤークは交通の要衝でした。レバノンの幹線鉄道が交差し、航空機が軍事飛行場を行き来していました。それでも12歳の少年が暮らす山村では、空は澄みわたり、星がはっきりと見えました。

その1959年に、若きチャールズ・エラチ少年にちょっとした出来事がありました。ベイルートのアメリカ大使館で、アメリカの科学に関するパンフレットをもらったのです。それがその後45年間に及ぶ米航空宇宙局ジェット推進研究所(JPL)での勤務と、地球と太陽系の惑星探査に携わることにつながったのです。

グルノーブルの大学生時代のチャールズ・エラチ博士。カルテックで博士号を取得する前に電気工学の学士号を取得した

その2年前の1957年、旧ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号と2号を打ち上げました。翌1958年には、アメリカがエクスプローラー1号を打ち上げました。宇宙開発競争の始まりです。

「これらの出来事全てが私を魅了しました。実際に宇宙空間に物体を打ち上げることが可能になったのです!」10月のアメリカン・ビューとのインタビューで、エラチ博士は述べました。

博士の父親は地方の鉄道駅の駅長でした。両親とも高校さえ出ていませんでしたが、出世する手助けになるからと、彼や弟妹に大学に進学するよう勧めました。エラチ博士はレバノンのフランスの高校に進学し、科学を楽しく、そして興味深く教える教師に出会いました。その後フランスのグルノーブルの大学に進み、物理学と電気工学を学びました。それでもアメリカの科学に関するパンレットのことを忘れることはありませんでした。

エラチ博士は、大学生時代に始まった宇宙開発競争に注目しました。アメリカは宇宙飛行士を月に送り込む準備をし、最初の惑星間探査機が火星と金星に到達しました。彼が大学院進学を計画中に、教授の1人がパサデナのカリフォルニア工科大学(通称カルテック)に応募するよう勧めました。エラチ博士はカルテックに引き付けられました。というのも同校がJPLやアメリカの宇宙計画と関わっているだけでなく、他の種類の星―ハリウッド近郊で暮らす映画スターたち―にも近づけると期待したからです。

「アメリカという異文化に入っていくのは怖いと思いました」と話すエラチ博士ですが、遠く離れた中東からやって来た彼をアメリカ人たちは温かく迎えました。カルテックでは学生の半数と、かなりの割合の教授が外国出身だったのも幸いしたようです。そこでは自らの力で学問を志す、フランス、イタリア、香港、ギリシャ、チェコなど、さまざまな国の出身の友人ができました。

エラチ博士は話します。「海外留学、特にアメリカの場合は、本当に人生の幅が広がります」。ソーシャルメディアとインターネットのおかげで世界は相互につながっていますが、「国、文化、背景の異なる人たちとの直接体験は、人生を大いに豊かにしてくれると思います」。

博士号を取得したエラチ氏は、カルテックが管理するJPLの研究センターで仕事に就きました。そこでのミッションは、NASAのロボット工学と地球科学です。彼はまだ20代でしたが、若い科学者と技術者を率いるチームリーダーとなりました。そのチームは、レーダーを使用して衛星軌道から地球を測量するスペースシャトルに関する実験を任されていました。

エラチ博士にとって、最高にわくわくするプロジェクトでした。初めて重要なリーダーシップを発揮する機会だったからです。「能力のある人が努力すれば、キャリアの早い段階で認められ、非常に重要で責任ある仕事を任せられます。米国ではそれが可能なのです」

このプロジェクトにより、エジプトの砂漠の地表の下に隠れていた川床が発見されました。ファラオの時代の気候が、今よりずっと湿潤だったことを示す証拠です。エラチ博士は、川床を探すため考古学者のチームに加わり、宇宙を拠点にした実験の追跡調査を行いました。

宇宙から地表の下の川床を発見した後で、エジプトの砂漠で実際の川床を調査するために考古学者のチームに加わったエラチ博士

「今では誰も気にかけませんが、当時は画期的なことでした。我々が初めてほぼ地球全体を観測して、全世界の地形を調べたのです」。エラチ博士は語ります。「今ではグーグルアースで場所を選べば、その衛星画像を見られます。40年前には不可能でした。宇宙開発事業がなければ起こり得なかったことです。気象観測も同様です。今では全てのハリケーンの動きを観測できますが、気象衛星がなければ実現しなかったことです」

エラチ博士は2001年、JPLの所長に就任しました。その在任中に、火星の表面探査のために、3台の探査機、スピリット、オポチュニティー、キュリオシティを送るミッションに携わりました。全てのミッションの中で、この火星探査に関わるものが最も感動的な瞬間をもたらしたと博士は言います。「約10年かけて3つのミッションに取り組みました。その成功は、着陸直前の5分間にかかっているのです。それが本当に困難なミッションに劇的効果を与え、さらに成功することで、より大きな感動をもたらすのです」

キュリオシティの火星着陸をパサデナのJPLで祝うエラチ博士(2012年8月5日)

エラチ博士は2016年にJPLの所長を退職し、夫人と2カ月間カナダをハイキングした後、名誉教授としてカルテックに復帰しました。

学生たちと仕事をする傍ら、管理者ではなく科学者として、博士はいくつかの研究事業に取り組んでいます。地表の動きと水資源を観測するインドの衛星や、中東の水資源を研究するサウジアラビアのプロジェクトなどです。

彼はまた、木星の衛星エウロパの探査に参加しています。この探査は、氷で覆われた衛星の表面を測量し、着陸船を送り込むことを目指しています。最終的な目標は、氷層の下の海を探査するために地表に穴をあける探査機を送ることです。

これらの取り組みの一つ一つで、さまざまな国から集まった科学者と技術者の一丸となった協力が求められます。

エラチ博士は話します。「アメリカとソ連が競争した冷戦時代でさえ、我々は協力していました。緊張状態にあるときでさえ、宇宙は我々を結びつける場なのです」

博士の宇宙と地球の探査は続きます。

東京で10月に行われたインタビュー中のエラチ博士。博士はカルテックでさまざまな実験に携わっている。「我々人間は探査が好きなのです。それは遺伝子に組み込まれているようなものです」

「探査は魅惑的です」博士は続けます。「宇宙探査であれ、海洋探査であれ、森や山の探査であれ、我々人間は探査が好きなのです。それは遺伝子に組み込まれているようなものです。子供の頃から我々は常に探検をしています。この椅子の後ろには何があるのだろう、テーブルの下には何があるのだろうと。人は常に何か新しいことを学ぶことに魅力を感じます。年齢を重ねてもその感覚を育み続けなければなりません。好奇心を持ち続ける必要があるのです」