2月24日のドナルド・キーン氏の死去は、日本のみならず世界中のアメリカ人を悲しみに包み、日米の相互理解と友好促進で故人が果たした役割の大きさをあらためて実感させた。

アメリカ人は、日本人の心や日本文化を教えてくれた日本研究の第一人者であったキーン氏に、哀悼の意を表した。アメリカ大使館では、幸運にも大使館のイベントでキーン氏に会えた日本人職員は、常に優美かつ謙虚であった故人を偲んだ。長年大使館に勤務するある職員は、キーン氏を「まさに日米友好の草分け的な存在」とたたえた。

キーン氏と日本の出会いは1冊の本から始まった。1940年のある日、18歳のキーン氏は、ニューヨークの古本屋で、ある日本の古典作品を手にした。11世紀に紫式部が執筆し、しばしば世界最古の長編小説と言われる「源氏物語」だ。この作品は、16歳でコロンビア大学に入学し、既に外国語や外国文学の研究で頭角を現していた青年に大きな衝撃を与え、彼が日本のとりことなるきっかけとなった。この源氏物語との出会いについて、キーン氏は自叙伝「私と20世紀のクロニクル(Chronicles of My Life: An American in the Heart of Japan)」の中で、「私は心を奪われてしまった。私は読むのをやめることが出来なくて、時には後戻りして細部を繰り返し堪能した」と振り返っている。

キーン氏の日本語への情熱が高まる中、第2次世界大戦の足音は着実に迫り、時代は激動の波にのまれていった。海軍日本語学校に志願して入学したキーン氏は、日本語を集中的に勉強、軍の翻訳者兼通訳者として働くようになった。海軍での任務は、押収した日本語文書の翻訳だった。その中にあった日本兵の日記は、彼にとって「堪えられないほど感動的」な内容だった。キーン氏は自叙伝の中で、この日記の筆者たちこそが、彼が本当に知り合った最初の日本人であり、これらの日記が、日本研究者となる上で貴重な要素となったと振り返っている。また沖縄では、日本兵捕虜の尋問を行い、親しくなった兵士に、日本の再興のためにがんばるよう励ました。

戦後日本を訪れたキーン氏が出会った日本人はみな、彼に親切に接してくれた。

「日本人がアメリカ人に、あるいはアメリカ人が日本人に抱く憎しみのかけらさえ、私は感じたことがなかった。辛い戦争が終わって、まだ4カ月かそこらしか経っていないのだった。どうすれば人間の気持ちが、こんなにも早く変わってしまうことが可能なのだろうか、私は不思議だった。たぶん友情が人間同士の抱く普通の感情で、戦争はただの逸脱に過ぎないのだろう」

キーン氏が大切にしたのは、この友情の精神であり、生涯にわたりその気持ちを育み続けた。

キーン氏は、コロンビア大学で日本文学の教授になった後も、頻繁に日本を訪れ、川端康成や三島由紀夫といった多くの著名な日本人作家と親交を深めた。日本の古典芸能である能から近代文学まで数多くの作品を翻訳し、日本文学を幅広く世界に紹介した。日本文学や歴史に関する本も数多く執筆し、そのいくつかは、今なお大学で教材として使われている。また、日本の全国紙にコラムを掲載し、さまざまな記事を寄稿した。

1985年、キーン氏は外国人として初めて読売文学賞を受賞した。2008年には、日本政府から文化勲章を授与された数少ない外国人の一人となった。

キーン氏は、日本の文化や歴史を幅広くアメリカ国民に紹介し、アメリカ人の日本への理解を深め、両国民の絆を強めた。日本の文学界で、親近感があり、かつ尊敬されるアメリカ人としての役割を自ら切り開き、アメリカ人が日本の文化を味わい、理解していることを伝え、日本文学への国際的な関心も高めた。

キーン氏は2012年、東北地方を襲った東日本大震災から復興を目指す日本と共にあることを示すため、日本国籍を取得した。彼は日本人として亡くなった。だが、彼は日本が初めて得た真のアメリカ人の親友の一人であり、日本を心から愛したアメリカ人として人々の心に刻まれるだろう。

 

翻訳文学で世界を知るアメリカ人