クリスティン・ホー
在日米国大使館2010年夏季インターン
トーマス・R・ピカリング・フェロー
(注1)

クリスティン・ホー

 2010年夏、在日米国大使館でインターンを務める。トーマス・R・ピカリング・フェロー。同年5月、米国ワシントンDCのジョージ・ワシントン大学エリオット・スクールで国際関係学修士号を取得。ウェルズリー大学で学士号を取得、同大学在学中の1年間、京都の同志社大学に留学。

私にとって日本での留学生活は、時には大変なこともありましたが、人生を変える素晴らしい経験となりました。最初に日本で勉強したのは、大学の留学プログラムに参加した時です。プログラムを選ぶ際には、留学フェアに参加したり、インターネットで調べたり、大学の先生に相談したり、留学から戻ってきたばかりの学生に話を聞きました。最終的に、何に興味があるかを考えた上で、学業面での要件と私の個人的な希望の双方を満たす最良のプログラムはAKP (注2) だとの結論に至りました。そしてこのプログラムに参加し、1年間ホームステイをしながら、京都の同志社大学でさまざまな科目の授業を英語と日本語で受けました。

同志社大学のキャンパスで、AKPに参加している友人たちと。中央が私(写真提供 クリスティン・ホー)

AKPには私が学んでいた大学も参加し、費用は通常の授業料だけで済みましたし、AKPで取ったクラスを単位として認定してもらうよう申請する必要もなかったため、経済的にも、単位取得の面でも助かりました。また母校の留学相談室から紹介されたり、自分がインターネットで見つけたすべての奨学金に応募しました。こうして2006年秋から1年間の京都留学では、アジア留学のためのフリーマン奨学金(2000ドル)とベンジャミン・A・ギルマン国際奨学金(5000ドル)を受けることができました。

日本へ行く準備として、ビザを申請し往復の航空券を購入しました。航空券の購入で気をつけたのは、飛行機の到着が遅れることを考え、予約した出迎え時間の少なくとも3時間前には到着する便を選ぶことでした。受け入れ先となる大学が発行した身元保証書がAKPから送られてきたので、これと旅程表、パスポートを持って最寄りの日本領事館に行きました。領事館では、ビザ申請の番号札をもらい、待ち時間に英語のビザ申請書に記入しました。私の順番になったので、窓口にいる女性に申請書と身元保証書、旅程表、パスポートを提出しました。窓口の女性は私の書類に目を通すと、私の留学計画について英語でいくつか簡単な質問をし、パスポートが日本到着後すぐに期限切れにならないことを確かめると、旅程表と身元保証書を私に返して、3日後にもう一度パスポートとビザを取りに来るように言いました。とても簡単でした。一方、日本に行くための荷造りはとても大変でした。それまでマサチューセッツ州以外の場所に住んだことがなかったからです。インターネットで京都の気候も調べました。AKPから「持っていった方がよい物」の一覧表が送られてきました。これにはとても助かりました。内容も正確でした。

2006年9月6日、私は関西国際空港に到着しました。税関も入国審査もまったく問題ありませんでしたが、ビザと一緒に身元保証書の提示を求められました。AKPは同志社大学の英語ディベートクラブとのツアーを企画してくれ、クラブのメンバーたちが丸1日かけてホストファミリー宅から大学までの通学経路を教えてくれたり、ゆうちょ銀行の口座の開設、国民健康保険や外国人登録証の申請を手伝ってくれました。ツアーガイドをしてくれた人たちは、私にとって初めてできた日本人の友人で、それからの1年間、さらに多くの人たちと知り合えるよう力を貸してくれました。サークルへの参加も、新しい出会いや日本での学生生活への適応に役に立ちました。

冬の金閣寺にて(写真提供 クリスティン・ホー)

カルチャーショックの面で私が直面した最大の問題は、2年間も日本語を勉強し、毎日日本語を使えると期待していたにもかかわらず、日常生活で使われている日本語は、私が慣れていた日本語よりも早くて口語が多いと気づかされたことです。母国を離れて最初の1カ月間は、何も分からないような状態でした。それでも京都に住んで、ホストファミリーと暮らす以上、日本語能力を向上させる以外に残された道はありません。京都は、東京や横浜のように英語だけで支障なく暮らしていける土地柄ではありません。しかも私のホストファミリーは、日本語しか話せない70歳代のご夫婦だったのです。というわけで、1日中日本語だけという生活が毎日続きました。最初は悪戦苦闘していたのですが、上達を実感できたときはとてもうれしくなりました。ホストファミリーの家の前をよく通る車があり、物悲しい調子で何かを訴える運転手の声が、マイクを通して聞こえました。最初、何を言っているのか分からず、イスラム教の祈りの言葉のように聞こえました。ところが12月半ばのある夜に、またその車がやって来ていつもの悲しげな声が聞こえてきた時、はっとしました。ついに聞き取れたのです。その哀切な声は「い~しや~きいも~!」と叫んでいたのです。祈りの言葉と勘違いしていた自分にあきれましたが、聞き取れたことにも驚きました。それから、ニュースやクラスメートの話、バスや電車の車内アナウンスなども理解できていることに気づきました。なんとも言えず良い気分でした。

日本滞在中は、ホームシックと呼ぶようなものにはかかりませんでした。1週間から2週間に1回、両親と電話で話したことや、授業と校外での日本文化を学ぶ活動でいつも忙しくしていたのが良かったのだと思います。授業が終わった後は、AKPのオフィスや友人の紹介で知った日本舞踊や邦楽のけいこに通いました。特定の食べ物(ステーキですが)を無性に食べたくなることがありましたが、もっと大きな都市や外国に旅行したりして、たいていの場合はその欲求を満足させることができました。留学中の1年間に、神戸、大阪、広島、宮島、長崎、熊本、阿蘇山、別府、札幌、東京、横浜、日光、箱根、台湾の台北を訪れました。国際的な都市に行けば、食べたかった中国料理やアメリカの食べ物を見つけることができました。旅行は、日本や近隣の国々をよく知ることができる素晴らしい手段です。ユースホステルに宿泊して、オンラインで見つけた鉄道会社や旅行会社の割引サービスなどを利用すれば、私の慎ましい予算内でも、どうにかやりくりすることができました。また、日本中どこにでもある100円ショップは、お金のない大学生の命綱でした。とはいえ旅行中は、1日1万円ほど使いました。それだけあれば普通なら1週間は過ごせる金額です。

在日米国大使館でインターンとして働く私。大使公邸にてルース大使夫妻と(写真提供 クリスティン・ホー)

留学して一番の経験は、ホストファミリーとの生活でした。ステイが終わるころには、私にとって本当の家族のようになっていました。1年が過ぎる中で私が学んだのは、ホストファミリーと一緒に時間を過ごし、問題があるなら伝え、予定を話し合うことが非常に大切である、ということです。私のホストファミリーが教えてくれる情報は確かなものでしたし、よく話をして、お互いの習慣や意見を尊重しながら、協力して歩み寄る努力をした結果、ほかの留学生たちが経験した多くの問題を回避できました。常識さえ働かせれば済むこともありました。AKP留学生のひとりは、食後のスナックとして出されたポテトチップスを、ホストファーザーに少し残して置くようホストマザーに言われていたにもかかわらず全部食べてしまった、といったことがいくつか重なって、ホストファミリーとの間がギクシャクしていました。別の留学生は、ホストマザーが出す料理に全く手をつけなかったためトラブルになっていました。そしてホストマザーがその学生の食習慣に合わせようと、彼女を連れてスーパーに買い物に行ったところ、日本ではとても高価なものばかりを選んだのです。たいていのホストファミリーは、住まいや食事を提供することによって、AKPから毎月受取る金額をはるかに上回る経費を留学生のために負担しているのですから、私も友人も、何かしてもらったらいつも忘れずに「ありがとう」と言うことや、旅行をしたら必ずホストファミリーにお土産を持って帰ることを心がけていました。私のホストファミリーは、時々私がお菓子やお花を買って帰るのをとても喜んでくれました。AKPも、感謝祭の祝日には、お世話をしてもらっていることに対する感謝のメッセージカードをホストファミリーに送るよう勧めていました。

日本でのアメリカ人の固定的イメージを知るのも興味深く、しばしば面白く感じました。例えば友人のホストファーザーは、毎日ハンバーガーを食べるのはどんなものか、と聞いてきました。アメリカ人だからといって、誰もが3食マクドナルドで取るわけではなく、実はアメリカには世界中の食と文化が集まっていると説明するのは楽しいことでした。けれど、そうした固定的イメージの中には、当たっていると思われるものもありました。そのひとつが、キャンパスで一番身なりに無頓着なのが留学生、というものです。これには反論の余地はほとんどありませんでした。例えば、同志社では、留学生はスウェットシャツとジーンズを着て、背中にバックパックという格好でクラスに出席するのですぐ分かります。最新のファッションで決めて、バックパックは決して持たない日本人学生と比べると、はるかにカジュアルで質素です。ほかには、台湾系アメリカ人の私は、ブロンドでも青い目でもないから、本当にアメリカ人だとは信じられないという人たちもいました。その一方で、私が日本であまり差別を受けなかったのは、日本人といっても通用する外見だったからでしょう。一定の人物像に当てはまるために、警察官によく呼び止められて身分証明書の提示を求められたクラスメートもいれば、人に避けられたり、失礼な扱いをされたりするクラスメートもいました。そんな時には、礼儀正しく友好的な態度を保つことが効果的だと、多くの留学生が学びました。そうすることによって、しばらくたつと、留学生に対する人々の見方が変わってきたからです。

ルース大使とインターンとの昼食会(写真提供 クリスティン・ホー)

今、私は再び日本にいます。今回は外国で学ぶために前回とは違う道を選びました。東京の米国大使館のインターン制度に応募したのです。これは学業よりもむしろ職業上の経験になるので、かなり様子が違います。プロジェクトを担当し、イベントを手伝い、高官のミーティングに参加しています。大まかに言えば、日本の「サラリーマン」のような生活を経験しています。この生活では、時には働く、食べる、寝ることだけが生活のすべてのように感じることもあるのですが、私は日本のチームワークと仲間意識がとても気に入っています。おそらく米国での仕事もこれと大差ないでしょうが、個人主義がもっと重視されるはずです。米国大使館での研修で、私は、日本と米国の職業文化を取り混ぜた経験をすることができました。時には興味深く刺激的なこともあります。先日は、ルース大使がインターン全員をランチに招待してくださいました。私は週末になると、旅行に出かけています。国務省にはさまざまなインターン制度があり、その約半数では給料と住居が支給されますが、残りの半数は経費をすべて自己負担しなければなりません。私は両方とも経験しましたが、どちらも同じようにやりがいがあり、得るところも多いと思いました。日本での研修ではありませんでしたが、私が無給インターンだった時は、共同生活や知人宅への下宿、買い物に出かける前のリスト作成、卸売り店や農家からの直接購入によって必要経費を切り詰め、家賃も含めて週に2万円相当で生活していました。

ともあれ留学はお勧めです。実りある経験ができますし、人間的に成長できるまたとない機会です。それに、何といっても楽しいのです!


注1 大学院生を対象としたトーマス・R・ピカリング外交問題フェローシップは、米国国務省が資金を拠出し、ウッドロー・ウィルソン全米フェローシップ基金が運営する奨学金制度。国務省の外交官になるための教育と実務経験をフェローに提供することを目的とする。フェローシップ・プログラムのすべての要件を満たしたフェローは、少なくとも3年間、国務省の外交官として勤務しなければならない。

注2 Associated Kyoto Program の略。米国のリベラルアーツ・カレッジ15校が日本語や日本文化についての教育を目的に同志社大学に設置したプログラム。詳細はこちらを参照。